文/中国の大法弟子
【明慧網2022年11月2日】私は57歳です。54歳の時、法を学ぶときに、文字が二重になったり、ぼやけて見えるようになったりしたので、老眼鏡をかけようと思いました。学法点(学法をする場所)に行って、同修たちにこの考えを話しました。当時の学法点にも年を取った同修が老眼鏡をかけて法を学んでいました。同修乙(ある同修)は「老眼鏡をかけて法を勉強することをしてはいけない、あなたは大法弟子ですので、常人の道を歩んではいけない」と言っていました。実は私も修煉者として自分が老眼になったという観念があってはならないことを知っていますが、当時は常人の観念が先行していたので、それ以上何も言いませんでした。しかし、法を学ぶ時に、字がよく見えなくて、心が焦っていました。
家に帰ってから、師父の『轉法輪』の第二講「天目の問題について」 [1] をもう一回読みました。
師父は「そのため、彼らは目で見たものこそ真実で、見えないものは信じられないと固く思い込んでいます。昔はずっとこのような人は悟性が悪いと見なされていましたが、なぜ悪いか多くの人ははっきり説明できません。見えないから信じない、とても理にかなっているように聞こえるではありませんか。しかし、ちょっと高い次元から見るとそれは理に合わないのです」[1]と説かれています 。
ここまで読んでから、突然「悟性が悪い」という文字が脳裏をよぎりました。よく考えてみると、やはり人間の「百聞は一見にしかず」という考え方でしていました。
そうではなく、法輪大法の真・善・忍の基準で自分を要求しなければなりません。私は大法が本体を変えることができると悟っただけで、心性を修めることを重視しませんでした。自分は心性を修煉して執着心を取り除くという面で、法理で自分を厳しく要求しませんでした。これは修煉に漏れがあるということですので、目の調子が良くなったり悪くなったりしていたのです。
今年の猛暑日に、野良仕事をして、汗をかきすぎて、法を学ぶときに目がかすんでしまいました。夜になって学法点へ法を学びに行くと、何気なく他の同修の老眼鏡を取ってかけましたが、文字がはっきり読めなかったので、メガネを外しました。同修乙は私のこの行動を見て、「どうしてまた眼鏡に頼りたくなったのですか?」と私に言いました。彼女は自分が悟った大法の法理を述べました。「どんな物でも他の空間の異なる次元で生きていて、それに頼れば支配される。だから、法輪大法の法理を使って、自分の認識を変えてみたらどうだろうか?」
当時の法を勉強した時、字が読めなかったので、不安で何気なく「どうしたら変われますか」と聞きました。彼女は「『大法は全ての正しくない状態を正すことができます』[2]と師父は説かれています、あなたは法を読むとき、字を 『大』 『大』 『大』に変えようと思っています」と言いました。私はまた彼女に言い返そうとしましたが、突然、同修と話すときの心構えや口調が、「本当に高めたい」「執着心を取り除きたい」「向上したい」という本当の自分の考えではない気がしました。私は言い返すのをやめました。自分を深く見つめてから、外に目を向けること、法を学ぶことが大切という口実で自分への言い訳を弁護し、心の中で不平を言うなどの悪い考えを見つけました。
そして偶然はないと認識しました。師父が同修の口を借りて私に、関と難に遭った時にどのように修め、どのように行動するかを教えてくれたのです。
それを理解したとき、師父の慈悲深い見守りに心から感謝しました。同修の助けにも感謝します。この共同で向上する環境に感謝します。
ここまで書いてきて、「苦を嘗めるをもって楽とす」[3]について少し理解できました。 苦しみ、身体の不調や各種の心性を高める魔難は、我々が人間界に溺れず、師父に従って本当の家に帰らせるための一種の戒め、促し、業を消去し、転化、すべて大いなる良いことです。
今、私の目は正常に戻りましたが、私はまだ安逸心や私心があり、人を救うために、真実のことを伝えるのは難しいという心を持っています。必ず大法の法理の中に、法で身を正し、法に同化し、法を正すという進展の中で、師父と一緒に家に帰ることができると信じています。
上記は、最近の個人的な修煉した悟りであり、不適切なところは、同修の慈悲なる訂正をお願いします。
注:
[1] 李洪志師父著作:『轉法輪』
[2] 李洪志師父著作:『米国東部法会での説法』
[3] 李洪志師父の詩:『洪吟』「その心志を苦しめる」