中国法会|明慧ネットにアクセスする物語(二)
■ 印刷版
 

文/中国の大法弟子 

 【明慧日本2022年11月20日】(前文より続く)

 四、「私はこれをやるために来た」

 当時、中共による迫害はまだ狂っていました。そんな中で技術サポートをやるのは、心の中ではかなりのプレッシャーがありました。私は目立たないようにやりたかったので、関係のない人に知られないように、明慧ネットにアクセスする同修真相資料の提供先だけと連絡しようとしていました。しかし、このようなプロジェクトをしていない同修たちは、私のプレッシャーに共感できず、この点で安全意識がありませんでした。同修に私のことを秘密にしてくださいと注意しても、また何かの具体的なことに逢うと、忘れてしまうのです。

 時々、同修たちが一緒に交流している間に、私が明慧ネットにアクセスできることを知り、直接に共産党関連組織から脱退した衆生のリストを渡されたことがあります。私が明慧ネットにアクセスしていることを何気なくその場にいる同修の全員に知られてしまったのですが、私は黙ってそれを受けるしかありませんでした。ある時、同修が明慧ラジオの音声ファイルを欲しがる時、他の同修の前でそれを読み込むように頼まれたこともあります。特に周りの同修が何気なく何か言った時、言い出すべきでない秘密情報が暴露され、その場にいる同修が多くの情報を知ることになったのです。同修から頼まれたことは、どんなことでも修煉のためだと思い、断わるわけにはいきません。これらのことは、私にある程度のプレッシャーをもたらしたのですが、邪悪な迫害の中で修煉を続けることは、同修にとっては容易なことではないと理解しています。同修はわざとそうしたのではないし、責めることはできません。

 同修の家に行ってシステムのインストールを手伝うとき、同修の家族に知られたくないので、「これは隠れた暗号化システムだから、ご家族は普通にパソコンを使える。特にコンピューターに詳しくない人は、暗号化システムが隠されていることを見抜くことができない。私がここで何をしているのか、ご家族には内緒にしておいてください」と、同修に伝えています。同修たちは、その時はたいてい承諾してくれるのですが、いざ家族と対面してみると、約束を守るというより、家族への情によって、私のことを伝えてしまうことが多いのです。

 あるとき、ある同修の家に、パソコンのインストールを手伝いに行きました。その同修の自宅の庭に着くと、同修の息子の妻は、私が彼女の姑に会いに来たことを知り、同修に「この人は何をしに来たのか?」と聞いてきました。その同修は思わず、「パソコンのインストールを手伝いに来た 」と言ってしまいました。その一言は私のストレスになり、「なぜ口を修めることに注意せず、修煉しない息子の妻に私がここにくる目的を教えたのか?」と思いながら、せっかく来たのだから、続けるしかないと思いました。しかし、思わなかったのは、同修の息子の妻が私を見て、同修に「この人は信頼できるの?」と聞いてきのです。そこで初めて、自分の安全のために同修の家族の信頼性を観察するだけでなく、自分自身も同修の家族から疑われることになることに気づいた瞬間、プレッシャー感が倍増しました。

 これらのことは、今なら大したことではなくなったのですが、当時の状況下では、それが頻繁に起こり、私はますますストレスを感じるようになり、自分のやっていることが公になり、ストレスもますます増えていくと感じていました。毎日、命をかけるように、息苦しいようなストレスを感じていた時期がありました。

 どうしたらいいのでしょうか? それでもやるべきなのでしょうか? 数日間考えた末に、「これが私がこの世に来た目的だ! 直面しているものが何であれ、なすべきことをなすのだ!」と自分に言ったのです。そう考えたら、絶大なストレスがなくなりました。そのストレスを取り除いてくださったのは、師父だと思いました。

 五、トラブルの中で自分を修める

 毎日、気が抜けないほど忙しい時期があったので、少しでも一部の仕事を分担してくれる同修がいればいいなと思いました。日頃から一緒にいる数人の同修に、自分の考えていることを話しました。私は、「技術サポートの技術を勉強したい人がいれば、私は教えます。できる範囲でいいです。一番簡単なことでもいいから」と言ったのですが、同修は皆、黙っていました。何度も言ったのですが、誰一人も「勉強したい」と言いませんでした。私は不安で慌てるようになりました。

 ある時、「私一人では無理だ、誰かが一部を分担しなければならない 」と、同修に強く訴えたのですが、それでも誰も何も言いませんでした。その場にいる数人の同修らは皆能力があり、ある程度の学歴を持っています。中にはコンピュータ専攻の人もいました。私は焦りと怒りでいっぱいでした。

 そんな状況の下で、ある時、多くの人が参加する交流会では、甲さんは、「他人に教えるのが嫌なら、その技術を独り占めにして!」と言われました。私はびっくりしすぎて、「私は独り占めにしていないよ! 誰が学びたいか、何を学びたいか、どのぐらい学べるかを、私が教えると何度も尋ねたことがありますが、誰も答えてくれなかったのですよ。どうして逆に教えたくないと言うのでしょうか?」と反論しました。その場にいた十数人の同修は皆、私の欠点について話していました。私は、「私が全部やっているのに、私だけに問題があるのか! 仕事をする者には多くの問題があるが、仕事をしない者には問題がないのか!」と、私は感情のコントロールができず、大声で叫んでしまいました。みんなが次々と帰ってから、私はぷんぷん腹を立てながら、帰りました。

 その場にいた乙さんは何も言わなかったのです。彼女は、私の同僚でもあり、穏やかで大声で話さない優しい人です。修煉を始めた当初からずっと一緒にいたので、私のことを理解してくれていると思っていたのですが、その日のことを話すと、彼女はいつものような穏やかな口調で話しましたが、私が悪いと言ったのです。そのとき、自分の中にある無力感を感じ、もう何もできないと思ってしまったのです。

 なぜ、みんなは私をこんな風に扱うのでしょうか? なぜ、誰も私のことを理解してくれないのでしょうか? 何が起こっているのか理解できません。同修のために一生懸命に、ご飯を食べる時間も寝る時間も家庭の面倒を見る時間もなく、こんなに多くのことをやったのに、どうして私が悪いと言われるのでしょうか? その技術を教えてあげたいのに、誰も勉強しようとせず、逆に独り占めしていると言われるのでしょうか? 悔しくてやりきれず、自分の苦しみを訴える所がありませんでした。

 その後のある個別の交流で、「丙さんが教えてくれれば何でも分かるけど、あなたが教えるとなると、なかなか難しい。丙さんは、一見難しそうな問題を、わかりやすいように、簡潔かつ理解しやすいように表現してくれました。どんなに難しい問題でも、丙さんの説明で、その問題が急に簡単に感じられるようになりました」と、甲さんは落ち着いて笑顔で例を挙げてくれました。

 甲さんの話を聞いて、私は落ち着くようになりました。同修の言うことは一理があり、私の欠点を指摘してくれたのですから、同修に感謝しなければなりません。同修にパソコンの使い方などを教えるとき、何度もできないと不安になり、さらに口調が悪くなり、同修にプレッシャーを与えてしまうなど、自分の不出来を反省するようになったのです。

 甲さんは、「あなたはいつも、自分だけができる、あなたはできない。自分はあなたより優れている、という心で人に教えている」と、改めて気づかせてくれたのです。私は心を静め、同修から出された問題について、自分の中に自分を証明したいというものがないかを探してみました。じっくりと考えた結果、同修の言ったことは正しく、自分が常人の中で培ってきたこの傲慢な癖を直さなければいけないと、徐々に理解できるようになりました。今後、同修にパソコンの使い方などを教えるときは、もっと根気よく教えてあげたいと思うようになりました。そして何より、この出来事を通して、「人より優れている」という心を捨てなければならないことを知りました。

 このトラブルは、今後の私の修煉の道における大切な戒めとなりました。その後の法を正す道で、表面的な是非にとらわれず、その状態から一歩を踏み出し、自分の心の状態に注意を払いながら物事を進めるようになったのです。そして、この出来事によって、今後の修煉の基礎が築かれ、自我を捨てられるようになり、その結果、今までスムーズに歩んでこられたと感謝しています。

 その頃の過程を振り返ると、その時は自分が何かをしたような気がしましたが、実際は師父がやってくださっていたのです。私の修煉の一歩一歩は、師父に見守られており、師父の慈悲なる段取りなのです。

 六、修煉の道で、孤独になったことはない

 明慧ネットにアクセスできるようになる前の数年間、修煉の道でつまずき、問題に遭っても、どうやって法に従って理解するかわからず、ひいては、人に学び法を学ばなくなるようになり、大きな失敗をしたこともありました。明慧ネットにアクセスできるようになってから、師父の新しい経文をタイムリーに見ることができ、法を乱す偽の経文に惑わされることがなくなりました。わからないと思うことがあれば、明慧ネットで同修の修煉体験談を読んだら、不安を払拭することができます。修煉の中で、何か執着心が生じたと気づいたのですが、この執着心に対してはっきり認識できていないなら、明慧ネットで同修のこの執着心に対する理解、どうやってその執着を取り除いたのかを見たら、自分の理解もより明確になるのです。

 私自身が明慧ネットの恩恵を受けているだけでなく、同修が明慧ネットにアクセスする前後では、著しい変化が見られるのです。明慧ネットにアクセスできる同修は、修煉の中で何かに遭ったら、一般的に法に従って認識することができ、修煉も三つのことも比較的に精進し、法を正すプログラムの達人になるなることが多いのです。

 地元で明慧ネットが比較的よく普及しているため、法を乱すような行為があっても、地元では居場所を確保することは難しいのです。何か問題が生じても、同修の間でお互いに注意されればすぐに気づくことができ、大きなズレはありませんでした。

 師父のお見守りのおかげで、弟子である私はここまで来ることができました。明慧ネットがずっとそばにいてくれているからこそ、修煉の道で、孤独を感じたことはありません。家族のように、心を開いて励まし合い、共に学び修め、共に精進している世界中の同修たちに感謝します。

 (完)

 (明慧ネット第19回中国大法弟子修煉体験交流会)

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2022/11/8/451563.html)
 
関連文章