文/中国の大法弟子
【明慧日本2025年5月4日】私は2002年から明慧ネットを利用し始め、すでに23年が経ちました。邪悪な迫害によってインターネットに接続できなかった日を除き、ほぼ毎日、明慧ネットで同修の交流文章を読み「比して学び、比して修す」の姿勢で学んできました。これは私にとって非常に大きな励みとなっています。ここでその一部を皆さんと共有したいと思います。
一、同修との交流が、私に法を暗記するきっかけをくれました
私は2003年から大法の書籍を暗記し始め、もう22年になります。そのすべての始まりは、明慧ネットに掲載された同修の交流記事でした。
今でも鮮明に覚えています。ある同修の文章で「師父のすべての説法をすでに暗記した」と書かれており、さらに、迫害が始まってからは、新しい経文が出るたびに、長さにかかわらずすべてを漏れなく暗記しているというのです。当時の私は「すごい! 同修はそんなにすべてを覚えているのか…。私はまだ『轉法輪』すら暗記できていない」と思いました。それがきっかけで、私も『轉法輪』の暗記を始めました。そして気づけば、この習慣は20年以上続いているのです。
また別の時には、ある同修が『精進要旨』、『精進要旨二』、『精進要旨三』をすでに暗記しているという記事を見ました。その方は毎日、それら3冊を一通り暗記しており、それが修煉に非常に大きな助けとなっているというのです。「私は一冊も完全には覚えていない、私も頑張らないと」と思い『精進要旨』と『精進要旨二』の大半、そして『精進要旨三』のいくつかの文章を暗記しました。しかし、残念ながら時間が経つにつれ復習を怠ってしまい、当時覚えていた内容を忘れてしまいました。
以前は『洪吟』と『洪吟二』を暗記しており、それで十分だと思っていました。しかし『洪吟三』が発表された時、長すぎると感じて、最初は暗記する気が起きませんでした。ところが、明慧ネットで『洪吟三』をすでに暗記したという同修の記事を読み「自分はなんてダメなんだろう。やっぱり『洪吟三』も覚えないといけない」と奮起し、最終的には『洪吟三』も暗記しました。特に後半には、まだ修煉を始めたばかりの母に見てもらいながら、間違った部分があればその都度指摘してもらうようにしました。そのおかげで、最終的には一字一句違わずに、誰にも頼らず始めから最後まで完全に暗記できるようになりました。ちなみに、詩に触れたことがなかった母も、私の背読に付き合ううちに『洪吟三』を読めるようになったのです。
2017年のことですが、私は非常に大きな病業の関を経験していました。その関は肉体的にも非常に過酷で『轉法輪』を暗記しようとしても、心が全く静まらず、すでに内容を熟知していたため、頭がぼんやりして全然集中できず、その結果、半年間もその関を突破できずにいたのです。その途中で「『洪吟四』を暗記したほうがいいのでは」と思ったこともありましたが「難しそうだ」と思う心が働き、数篇暗記しただけでやめてしまいました。ところがある日、明慧ネットの交流記事で、ある同修がすでに『洪吟四』を暗記しているのを読んで「私はなんて怠け者なんだろう、意志が弱すぎる」と強く思い、『洪吟四』を暗記し始めました。初めて暗記する説法だったため、内容に集中しやすく、暗記の最中は師父の強いご加持を感じることができ、特に最初の数遍は涙を流しながら暗記していました。さらに不思議なことに、長い間乗り越えられなかった病業の関が『洪吟四』を集中して暗記しているうちに、いつの間にか過ぎ去っていたのです。
『洪吟五』は自発的に暗記を始めました。今は「『洪吟六』も時間を作って暗記しなければ」と思っているのですが、ついつい怠けてしまい、いまだに手をつけていません。
法を暗記する過程で、私は多くの深い体験を得ることができ、それがきっかけとなって、自分の体験を文章にまとめて明慧ネットに投稿しました。すると、それを読んだ他の同修も法の暗記に取り組むようになり、彼らもまた自分の体験を明慧に投稿し、さらに多くの同修たちが法の暗記に加わるようになりました。まるで良性の循環が形成されているかのようです。
周囲の同修にも、法の暗記の重要性を伝えています。ある同修は最初「自分には無理」と思っていたようですが、私がしつこく話し続けた結果、ついに暗記を始めました。彼女は後に「『轉法輪』をすでに4回暗記しました」と話してくれました。また、別の同修も、もう少しで『轉法輪』を完全に暗記できそうなところまで来ています。さらに、別の同修は『轉法輪』の暗記こそしていないものの、師父の他の講法(短めのもの)を手にすると、すぐに暗記してしまうほどです。こうして法をたくさん暗記すればするほど、正念が強くなり、「三つのこと」もうまくこなせるようになります。
また、法を暗記している同修の多くは、他人の悪い思想の影響を受けにくいことにも気付きました。だからこそ「今日はあの人の交流を聞きに行こう」とか「明日はあの人に付いていこう」といったような、他人に左右されるような行動は少なくなります。自分の中に法がしっかりと根付いているからこそ、ブレないのだと思います。
二、同修との交流が、修煉中の魔難を乗り越える助けとなりました
明慧ネットに掲載されている記事の多くは、同修たちが心を修め、「三つのこと」をしっかり行いながら地道に修煉している体験や気づきです。その内容は飾り気がなく素朴ですが、とても感動的で、細かなところにこそ修煉者としての真の力が表れていると感じます。それらは、単なる口先だけの話ではなく、実際に行動で成し遂げたものなのです。私は基本的に独りで修煉する形に近い状況にありますが、長年にわたり、明慧ネットでの同修たちの「三つのこと」に関する堅実な修煉交流は、私にとって多くの助けや参考になってきました。ここでは、その一例をご紹介します。
ある日、明慧ネットで読んだ記事の中に、魔難に直面した同修の体験談がありました。その方はそのとき「私は金剛不壊の身体を持つ。これは偽りの現象だ」と心の中で強く念じたそうです。その同修の揺るぎない正念が、私の心にとても深く残りました。
それからまもないある晩、私は眠っている最中に、左脚に激痛を感じて目が覚めました。ちょうどその瞬間「骨腫瘍だ」という考えが頭に浮かび、同時に、別の空間で自分の左脚の内側が、まるで石炭のように真っ黒に砕けていくのが見えたのです。そのとき、以前読んだあの同修の話をすぐに思い出し、私は迷わずに強く心の中で宣言しました――「これは偽りの現象だ! 私は金剛不壊の身体を持っており、私の身体にはこんなことは起こりえない!」と。その瞬間、左脚の激痛は完全に消え、私は再び穏やかに眠りにつくことができました。翌朝目覚めたときには、何事もなかったかのように痛みは消えており、それ以降、同じようなことは一度も起こっていません。それまで私は、左脚にしばしば原因不明の痛みを感じることがあったのですが、それがこの出来事を境に、完全になくなったのです。
三、交流文章を読むと、まるで清らかな水で心が洗われたように感じます
常人の社会で修煉している私は、恵まれた仕事に就いており、それだけに大きな責任も伴います。毎日の仕事は忙しく、体も疲れ、帰宅するころには心も重く、あまり良い気分ではないことがよくあります。けれど、そんなときこそ明慧ネットを開いて、同修たちの交流文章をいくつか読むだけで、仕事中に感じていた不快な気持ちはたちまち霧が晴れるように消えてしまうのです。同修たちは皆「三つのこと」に全力で取り組み、法を正す師父の手助けになるようと努力しています。大法弟子である私たちに、他の些細なことに気を取られている暇などないのだと、自然と心が引き締まります。
その日の交流文章を読み終えると、まるで清らかな水で心が洗われたかのような感覚になります。内面が穏やかで、平和な気持ちに満たされていくのです。長年にわたって明慧ネットとともに歩んできた私は、いつの間にか、たとえ日中どれだけ忙しくても、夜家に帰ってくれば、まるで外の世界と完全に切り離されたかのように感じ、現実の煩わしさから解放されるようになりました。夜の私は、学法をし、明慧ネットの交流文章を読み、法を実証する活動に集中する。そんな静かで、安らかで、そしてとても美しい時間を過ごしています。今では、私が学法や明慧ネットを読む時間に、外の雑音が入り込んで邪魔することは、ほとんどなくなりました。
四、明慧ネットは私が法を正す進展に追いつくための助けとなりました
表面の空間において長年にわたり独修を続けてきた大法弟子として、私がこれまで正法の進展にしっかりとついていくことができ、一度も取り残されなかったのは、何よりも長期にわたり明慧ネットを継続して見続けてきたおかげです。修煉を始めた初期の頃、どうやって邪悪な迫害を打ち破ればよいのかが分からなかったときには、明慧ネットの交流文章の中に、同修たちが実際に歩んだ道が示されており、それを手本にすることができました。また、どのように真相を伝えればよいか分からなかったときには、多くの同修たちの体験談や工夫が掲載されていて、そこから学ぶことができました。さらに、ある関や困難に直面し、どう向き合うべきか悩んでいたときにも、明慧ネットの交流記事の中に、同じような状況を経験した同修の体験談がありました。関や困難の種類は異なっても、その中で心性を高め、正念と慈悲をもって対処するという修煉者としての基本的な姿勢は共通しており、非常に参考になりました。そして、自分がいま何をすべきか分からなくなったときにも、同修たちの交流から、自分の足りないところや、これから強化すべき方向性が見えてきました。
要するに、世界中の同修たちの修煉における素晴らしい体験と気づきが明慧ネットに集まっており、私はそれを毎日読むことで、自然とこの巨大で清らかな流れの中に溶け込むことができました。そして知らず知らずのうちに、同修たちの純粋で強大な合力に引っ張られ、師父の偉大な法を正すの流れに乗って、共に前進しているのです。