【明慧日本2023年1月14日】怨みは修煉の中で取り除かなければならない執着であり、大法の法理を用いてのみ、心の中の怨みを解消することができます。
ここ数日、同修が書いた怨みを取り除くことについての記事を読み、私も怨みがあるかどうかを探してみました。かつて自分が他人から辛酸をなめさせられてきたことを思い返すと、数年経った今でも心の中に少し恨みが残っていました。
10年ほど前のことですが、会社にある同僚がいて、私にわざと難癖をつけることが多く、数年間その状態が続いたことがありました(おそらく当時、執着心はあったが見つかっていない)。私自身が修煉者であるため、相手に難癖をつけられても争うことはほとんどありませんが、ただ心の中から完全に手放したわけではありません。数年経ちましたが、そのことを考えるとまだ恨みが残っている、どうすれば自分が恨みを取り除くことができるのだろうか。
師父の説法から、ある事態に遭遇したときは、常人の概念で表面的な善悪にとらわれず、より高い次元から物事を見るべきだということを知りました。この同僚は私をいじめ、一般的な見解では、彼は理不尽であり、間違っていましたが、私は損失を被り、損害を被ったことになります。しかし、高い次元の理で測れば損をすることはなく、耐え忍ぶことで、徳によって報われ、業力も解消されました。これは交換であり、交換されたのはまさに修煉者が必要とするものです。相手がそのような役割を果たし、私の業を消し、徳を得る機会を提供し、心性を向上させる機会を提供してくれました。修煉者にとっては良いことです。
法理の観点から、恨んではいけないことを悟りましたが、心の中ではまだ少し憤慨していたので、私は高次元の理をもってこの問題を見るよう自分に課し、補強しました。このことを改めて考えるとき、まず頭に浮かぶのは、人間の思考ではなく、高次元の理をどのように捉えるかということですが、この考え方を変えれば、あまり恨みを抱くことが少なくなります。
同僚から難癖をつけられても、それは自分の業によるもので、私は以前から人を傷つけていたかもしれない、相手は借りたものを返してもらうだけで、私が怒ることはないのだ、と法から悟ったのです。同時に相手から徳をもらい、自分の業が消滅して徳に変わり、目には見えないが、そう信じています。徳は尊く、修煉する者が功を積むには徳が必要になります。自分のためになることで、怒ることも恨むこともないのです。
これまで、似たようなことはいくつかありましたが、私も法理を参考にし、上記の考え方に従って自分のもつれを解き、人の観念を変え、高次元の理で物事を見る習慣を身につけようとしています。それで、恨みを晴らし、心が清らかな状態に戻ります。
以上が現時点での私の認識ですので、もし間違っていたらご指摘ください。