文/山東省の大法弟子 玉洁
【明慧日本2023年4月23日】72歳の私は、1995年に法輪大法を学び始めました。中共邪党が大法を迫害して20数年来、私が今日まで歩んで来れたのは、ずっと師父が多くの心血を注いで守ってくださり、師父のご加護があったからなのです。とても私ひとりでは歩めなかったと思います。私には特に師父の教えである「どんなことがあっても、正念を持ち、正しく行うことができれば、乗り越えられない関はありません」 [1]という教えを深く会得しています。
一、心が動じない
2001年、邪悪による大法迫害の初期、私は本区の「重点人物」と見なされ、嫌がらせをされたり、常に監視されたりしました。全国人民代表大会と、全国政治協商会議の期間、副鎮長と、職場の8人が突然ノックして部屋に入り、私に本区の洗脳班に行くように言いました。私は彼らに「行きません!」と言いました。夫はこんなに多くの人を見て、私に「行ったら」と言いました。私は何も返答しませんでした。この時、副鎮長は私が同意しないのを見て、私の鼻先を指して「今日必ず行くように。どうしても行くんだぞ!」と言いました。
このとき、師父の法である「一つの心も動じなければ、すべての動きを制することができるのです」 [2]が頭の中に出現し、私は振り返って寝室に行き、ベッドで双盤をしました。4人が同時に私の寝室へ押し入ってきました。
夫は私の正念の下、正念が出てきて、この8人に厳しく「ここは私の家です。誰かが手を出したら、私は包丁で刺し殺します!」と言いました。その人たちは一気に震えあがりました。
少しして、その中の2人の責任者が顔を見合わせて外へ出ていき、しばらくして戻って来て「今日はここまでにしよう」と言って彼らを連れて帰って行きました。
二、「私は大法弟子です」
ある日、邪悪がまた私を洗脳班に連行するという確かな知らせを受けました。迫害を逃れるため、私は住んでいる場所を離れて路頭を彷徨いました。
2002年4月下旬、私は東北の某市で、当地の若い同修と一緒に、ある小区で迫害の真相資料を配っていた時、真相を知らない人に無実の罪を着せられ、当地の610弁公室に送られました。もちろん悪人がどんな方法を使っても、私は終始何も言いませんでした。
3日目、私は腰を殴打されたため、座ることも立つことも出来ず、全身青あざになり、顔は悪人が皮鞭で叩いたことで腫れ上がっていました。3日後、私は市の留置場に送られましたが、私の傷がかなり酷かったため、留置場側に受け入れを拒否されました。市の「610弁公室」の頭は留置場側を騙して「数日経てば連れて行く」と言いました。
留置場の登録が必要で、名字を聞かれたとき、私は「私は大法弟子と言います」と答えました。「どこに住んでいるのか?」ときかれて、私は「中国に住んでいます」と答えました。登録完了後、私は2人の男性受刑者に女性受刑者の部屋へ連れて行かれました。
受刑者たちは、私の顔を見て恐ろしくなり、また座ることも立つことも出来ないため「なぜそうなったのか?」とたずねてきました。私は、彼女たちに「私は法輪功を学んでおり、警官に殴打されました」と言いました。私はコンクリートに這いつくばって、彼女たちに傷を見せ、この機会に彼女たちに迫害の真相を伝え、私達は深夜まで話し、それから就寝しました。
翌朝、1人の女性受刑者がなんと、何度も捜査をかいくぐって保存された1冊の手書きの『轉法輪』を私にくれました。これは、かつてここで不当に拘禁されていたある一人の大法弟子が残したものだと教えてくれました。私は感動して「本当にありがとう!」と言いました。
三、「あなたに代わって宣伝するよ!」
受刑者の部屋は通常10人一部屋で、ベッドは木を一本一本集めて組み立てられており、ここに私を含める14人がいました。私は殺人犯と同じ布団を使い、トイレの近くに按配されました。夜寝る時、人が多いので、混雑して寝返りが困難で、さらに夜には誰かがトイレに行くたびに、ベットが連動して揺れ、その揺れで私は腰が痛くて眠れないこともありました。
私は、ある女性受刑者も眠れないことに気がつきました。彼女は心臓に病がありました。ここでは毎日2回食事が出ますが、空腹で彼女の心臓が強く動き、眠れなかったのです。私はそれを知ってから、心の中で「私は修煉者で、どんな環境にいても大法弟子の形像を現わさなければならない」と思いました。それから、毎食私は彼女に3分の1の肉まんをあげ、毎日このようにして彼女は眠ることが出来ました。私もお腹が空いていましたが、自分は修煉者だと思い、食べ物の苦しみは良いことだと思いました。ある日、彼女は涙を浮かべて私に「お姉さん、私はどうやってあなたに感謝したらいいでしょう!」と言いました。私は、彼女に「あなたが感謝するなら、大法の師父に感謝して下さい」と言いました。
ある日の深夜、10数人の同修が送られてきて、各部屋に1人が按排されました。後から知ったのは、彼女達は私と一緒に捕まった同修が話したことで連れてこられたそうです。こんなに多くの同修が本を持っておらず、私だけが大法の本を持っていたので、私は法を書き写すことにしました。紙とペンは同修と受刑者が提供してくれました。私は昼と夜の休憩時間に地面に這いつくばって法を書き写し、5カ月もしないうちに、私は順調に『轉法輪』を1冊書き写しました。このようにして各部屋の大法弟子がみな1講1講まわして学法出来るようになりました。
私は留置場の中で、誰一人として迫害の真相を伝える人を逃さず、誰かが入ってくるたびに伝えました。また『洪吟』の暗唱、煉功、大法の歌曲、字を受刑者に教えたりもしました。刑務官の接触は難しかったのですが、私は諦めませんでした。
ある時、全員に「体験談」を書くよう要求されました。私はこのチャンスを利用して、刑務官に長文の真相手紙を書きました。それを見た彼女は私と交流し、幾つかの問題を提起し、私は全て回答しました。彼女は私と離れる直前に「何か手伝うことがあるか?」と聞きました。私は「紙とペンが必要です。本を書き写すのに使いたいのです」と言いました。それから、彼女は全て持って来てくれました。私は刑務規則を読まず、囚人服を着ず、受刑者と共に煉功しましたが、彼女は黙認していました。なぜなら私の言行全てを彼女が分かってくれているからです。
私は、断食をして迫害に反対しました。ある日、私は2人の男性受刑者に持ち上げられて、強制的に運ばれました。私は声高らかに「法輪大法は素晴らしい」の歌をうたうと、階上、階下の受刑者たち、警官に衝撃を与えました。彼らはみなドアに群がって、窓辺で驚きながら見ていました。私は強制的に灌食されました。戻ってからトイレで嘔吐し、吐き出したものには鮮血が混じり、同室の受刑者たちはそれを見て心が痛み、涙を流していました。刑務官はそれを見て頭をゆらし、すぐに立ち上がって、パシリの受刑者を大声で読んで、大きな壺に入ったお湯を持って来させ、私の身体を洗い流しました。
私の腰は、学法、煉功、発正念するにつれて、だんだんと立ち上がることが出来るようになりました。ある日の日曜日、私がちょうど衣服を洗っていると、この日はちょうどその刑務官の当直で、彼女は私が立って衣服を洗っているのを見て、驚喜(きょうき:非常に驚き喜ぶこと)し「あなたが法輪功は素晴らしいと言わなくても、私があなたに代わって言うわ!」と言いました。
四、「無名の人士」
私が留置場に閉じ込められて3カ月ほど経った頃、頻繫に私を尋問する人が3人おり、太った人が市の公安局の人で、痩せた人が政法委の人、若い人が警官です。留置場であっても、市局であっても、私はいつも口を閉ざして何も言いませんでした。彼らはいつも録音、録画をしようとしますが、私の正念でいつも破られ、得た言葉は「法輪大法は素晴らしい」だけでした。留置場で尋問を受けた時、一度だけ、2人の男性受刑者が私を担いで歩く途中、政法委の尋問人が突然ある部屋から出てきて、不意打ちに私を撮影しましたが、目を閉じた写真が撮られました。しかも姓名、住所は彼らはまだ知りませんでした。
ある日、彼らはまた私を市局へ連れて行って尋問し、午前中ずっと尋問しましたが、やはり結果を得られませんでした。最後に、彼らは激怒して、私に殴る蹴るの暴行を加え、全身が痙攣し、顔面蒼白になりました。昼ご飯が終わり、政法委の人は偽善的に私に「おばあさん、あなたは腰が悪いのではありませんか? 午後はあなたを整形外科に連れて行って検査してあげましょう」と言いました。
病院に着いてから、問診するとき、彼らは医者を呼び出し、しばらくひそひそ話して、医者が戻って来てから私に姓名と住所を言うように言いましたが、私は回答を拒否しました。それからまたすぐに私をレントゲン室に連れて行き、私が台の上に横になろうとしたとき、太った市公安局の人は、居ても立っても居られないようで、私の姓名、住所を聞きました。しかし、私が依然として答えなかったので、彼は激怒して私の顔と頭を猛烈に殴打しました。私は心の中で分かっていました。彼らがレントゲンを撮ると言うのは嘘で、私の姓名を教えてもらおうとしているのだと。私は地面に転がるのも顧みず、大声で彼らに言いました。「あなたたちは、私を診察させに来たのですか、それとも殴打しに来たのですか!?」。ちょうどこのとき、何人かの人が、重傷を負った人を運んで来て、医者はすぐに彼らに目配せをし、私に「この人は大丈夫です」と言いました。彼らは慌ただしく私を車に乗せて、留置場に引き返しました。
車を走らせて道半ばまで来た時、空はすでに暗くなっていました。政法委の人は突然車を停めてドアを開け、私に「ばあさん、あんたは自分の姓名と住所を話す気はあるか? 今話したら、そのまま連れて帰るが、話さないなら生き埋めにする」と言いました。その時、私の心はとても落ち着いていて、大声で「あなた達には出来ません!」と言いました。彼らは私がまだこんなにも堅固なのを見て、他の2人が私を車から引きずり出そうとしたので、私は心の中で師父に助けを求めました。私は車の座席を強く握って放しませんでした。この時、正面から4~5人の自転車に乗った人が来ました。政法委の人は「このばあさんは、死ぬのさえ怖くないらしい」と言いました。そう言ってからまた他の2人に「もういいだろう、帰るぞ」と言いました。留置場に戻った時はすでに相当遅くなり、留置場の当直の人員は私を指さして、「彼女は言った?」と聞きました。市公安局の人は荒くため息をついて「無名人士だ」と言いました。
五、同修を目覚めさせる
5カ月後の10月になる頃、尋問する2人が私を外に出すと言い「おばあさん、あなたの家の人が迎えに来ている。私達はすでにあなたの名前と住所を知っている。あなたは教師ですね」と言いました。同時に3人が「我々はすでに力を尽くした。あなた達が連れて行ってください」と言いました。
午後、列車に乗って帰る時、駅に着いてから、また私を直接私の区の洗脳班に送りました。洗脳班で留置場で一緒だった1人の同修を見かけました。彼女は私に、彼女はすでにここへ来て2週間になる、彼女は良く出来ていないと私に暴露してきました。私は「そんなことを言わないで。私も戻って来ました」と言いました。それから後に分かったのは、悪人は私が目をつぶった写真を各地の洗脳班に配って、本区のひとりの邪悟者が私を認識したのです。
私が洗脳班に着いてから、ある同修がすでに「転向」しているのに気づきました。私は心の中で「どうしてこれで良いといえるのか?! 私は彼女たちの目を覚まさなければ」と思いました。それから、何人かの同修は私によって目が覚め「転向」を無効とする声明を出しました。洗脳班の邪悪は私が継続して人を目覚めさせるのを恐れたのか、昼夜55日間、ベッドに手錠でつながれました。私は何度も手錠をつけないと反抗しましたが、彼らは「転向」したら手錠をつけないと言いました。
洗脳班で、彼らはどんな手を尽くしても私を「転向」させることが出来ませんでした。私は留置場で断食をしたことで、身体が痩せ細って骨と皮しかなく、洗脳班に来ても依然として骨と皮だけで、ある人は私を多くてもせいぜい35㎏程だろうと言い、それで彼らは私を「人間の干物」と呼んだのです。私が「転向」しないので、彼らは私を労働教養所へ送る準備をしました。私がこんなに痩せ細っているので、身体不合格を心配した彼らは、私を区の病院に連れて行って身体検査をさせました。洗脳班のナンバー1、ナンバー2も出向きました。
病院で、血圧の検査を4回しましたがいづれも200を超えていて、また心不全もありました。医師が責任者に「彼女は入院する必要があります。さもなければ生命の危険があり、あなた達に不利になります」と言いました。責任者は「帰ってからまた話しましょう」と言いました。帰ってから、彼らは私に薬を飲むように言いました。私が拒否するので、彼らは薬をお粥にまぜ、しけったトウモロコシだと偽りました。私が「転向」しないので、彼らは私を暖房のない3階に閉じ込めて、手錠をかけました。
3カ月後の12月下旬頃、彼らは突然私を3階から2階に移し、手錠が外されました。冷たい部屋から暖かい部屋に移され、私はすぐに眠ってしまいました。私が夢の中で朦朧としているとき声が聞こえてきて、目を開くと、入口にたくさんの人がいて「610弁公室」の警官がビデオカメラで私を録画していたので、私は身をひるがえして、彼らに録画させないようにしました。録画した後、その人は私に労働教養所3年だと宣言し、それから私に態度を表明するように言いましたが、私は堅固として彼らに「私は認めません」と言いました。
翌朝5時頃、私を労働教養所に送るために警官が来て、私を事務室に行くように言いました。私は自室を出る時、手を上げて声高らかに「法輪大法は素晴らしい! 法輪大法は正法です! 大法は潔白です! 師父は潔白です!」と叫びました。叫び終えて、彼らに車に押し込まれ、山東王村労働教養所に送られました。私は心の中で師父に「師父、そこは私の行く場所ではありません。彼らはどのように私を連れて行っても、私は戻ります」。その後、身体検査で不合格になり、収容を拒否されました。彼らは、また私を洗脳班に連れ戻り、継続して迫害しました。
2カ月後、私と別のもう1人の同修を再度王村労働教養所に連れて行き、今回彼らは私たちの家族に知られないように送りました。師父のご加護の下、警官はまた失敗しました。労働教養所は収監せず、洗脳班も私たちを「転向」させることが出来ません。彼らは「あなた達2人は綿布袋に入れられた2匹のハリネズミだ。どうにもできない」と言いました。7月3日、9カ月間の洗脳班での迫害が終わりました。
六、「心からの九文字」を叫んで家に帰る
2020年8月下旬のある日、私は子供を抱っこした若い女性に、法輪功の素晴らしさを長い間話しても、彼女は三退に同意しませんでした。私は自転車に乗って、歩道から車道へ行きました。まもなくすると三輪軽トラックに轢かれてしまいました。はっきりと気づいたとき、青色の服を着た中年男性が、振り向きもせずスピードを出して行ってしまいました。私のカバンと自転車は、衝突で遠くに投げ飛ばされていて、私は立ち上がろうとしても立ち上がれませんでした。
私は這いながら、カバンと自転車を取りに行きました。自転車を起こそうとしましたが、起こせません。私は誰かに手伝ってもらおうと思いましたが、周囲には誰もいません。私は師父を思い出し、大声で「師父助けてください! 師父、弟子を手伝ってください!」と叫びました。叫び終えてから、自転車を起こすことが出来たのです。自転車を起こせましたが、乗ることが出来ません。私はまた継続して師父に手伝って下さるようにお願いし、この時私は右腕でサドルを強く押し、一押しで奇跡的に自転車に乗ることが出来たのです。
私は自転車をこぎながら「心からの九文字」を繰り返し念じました。途中で私の人心が出てきて「脚はスムーズに自転車をこげるか試してみよう、明日また人を救いに行ける」と思いました。自転車から降りると、また自転車に乗れなくなりました。私はもう一度師父に手伝いをお願いし、自転車に乗れました。私の悟性はとても差があり、何度も試し、その結果また師父に自転車に乗れるようにお願いすることとなりました。このようにして、私は自転車に乗って「心からの九文字」を言いながら順調に家に帰りました。
家に帰ってから、私は心の中で家族に言ってはいけないと思いました。私は直接寝室に行って、座って発正念をしました。私は夫に「私はお腹が空いてないので昼食は食べないことにします」と言いましたが、夫は気にしませんでした。
お昼になり、私の足は腫れて太くなり、足首から流血していました。夫は午後からずっと出てこない私を部屋へ見に来ました。見ると私の足は腫れて太くなり、私に「何があったのか」と聞きました。私は話さなければならないと思い、話しました。夫は娘と娘婿に話しました。
夜、娘と娘婿が来て、わたしを見るなり病院へ連れて行こうとしましたが、私は彼らに「大丈夫です。休めば数日で良くなるから」と言いました。娘婿は「こんなにひどい怪我をして、どうやって家に帰ったのですか?」ときいてきました。私は、自転車に乗って帰って来たこと、ずっと「法輪大法は素晴らしい、真・善・忍は素晴らしい」の心からの九文字を叫びながら家に帰ったことを話しました。
病院では検査をしていませんが、筋骨を損傷したのを感じていました。私は歩けず、外に出て人を救えませんでしたが、手、腕は怪我をしていなかったので、自宅の車を運転することはできました。1カ月後、私はまた人を救う道を踏みしめることが出来ました。
正法修煉はすでに最後の段階になり、私はこの限られた時間の中で、自分を良く修め、多くの人を救い、師父の恩に背かず、衆生の希望に背かず、使命を完成させ、師父と共に家へ帰ります。
注:
[1] 李洪志師父の著作:『二〇〇五年サンフランシスコ法会での説法』
[2] 李洪志師父の著作:『精進要旨二』「最後の執着を取り除こう」