7.20の期間に明慧と連携を取ろうとしたエピソード
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文/中国の大法弟子  

 【明慧日本2023年7月4日】1999年7月20日未明、明慧とオンラインで連絡を取り合っていた同修も含め、地域の協調人や精進している同修が一夜にして自宅から連行され、明慧との連絡が絶たれてしまいました。

 状況は緊急かつ複雑です。毎日、大勢の同修が師父と大法の正義を求め国家陳情局や天安門広場を訪ねました。同修が毎日のように逮捕され、殴打されると同時に、中共の工作員が捏造した偽経文が同修の間に出回っていました。当時、皆が最も望んでいたのは、明慧と連絡が取れるようになることでした。誰もが考え、模索していました。明慧は師父に最も近く、明慧から指示を仰ぎたいと思っていました。同時に、経文の真偽を確かめ、現地の迫害情報をタイムリーに明慧にアップし、明慧を窓口に全国、全世界の大法弟子の法を正す動向を把握したかったのです。明慧はそれだけ、大法弟子にとっての大事な存在であるがゆえに、どうにかしてアクセスできないかと試行錯誤しました。

 私は2人の同修に声をかけられ、近所に部屋を借りてそこに連れて行かれました。私たちは、とにかく明慧にアクセスしたかったのです。

 部屋は4面の白い壁に、床にバラバラに敷かれた古いダンボール箱の他に、旧式のデスクトップパソコン1台だけでした。あの数日間は喉が渇けばペットボトルの水を飲み、眠くなれば段ボールに突っ伏して仮眠をとっていました。不思議なことに空腹感はまったくなく、辛いとも感じませんでした。

 明慧編集部への本来の連絡方法は、連行された同修だけが知っていました。当時は、今のようにワンクリックでネット封鎖を突破できるようなツールはなかったので、DOSシステムを使ってネットワーク封鎖を突破するには、コンピューター技術に詳しい人たちに頼るしかありませんでした。私たちは昼夜を問わずいくつかの方法を試みましたが、明慧にアクセスすることができませんでした。最後に、明慧と連絡を取り合っていた同修と知り合いの同修に「彼は逮捕される前に何か言っていませんでしたか?」と尋ねました。彼女は懸命に考えて「何のためかは言わなかったが、ある文字列を覚えておいてくださいと言われた」といいました。 この時、コンピューターに詳しい同修はすぐにその文字列を入力してみましたが、それでもメールボックスは開きませんでした。

 誰もが絶望的な気持ちになった時、その同修は「大文字で試してみます」と言い、 彼女が大文字で入力すると、明慧に連絡するためのメールボックスが開いたのです!  私たちは興奮を抑えきれず、声を殺しながら「やった! うまくいった!」と歓声を上げました。

 それから数日間、私たちは明慧の同修と頻繁にやりとりをするようになりました。私たちは毎日、迫害に関する最新の情報、大法に関する情報、交流に関する記事を明慧からダウンロードし、簡単に編集してプリントアウトしました。それを、1人か2人の同修がそっと持ち出し、各地域の連絡担当者に配っていました。そして、彼らから修煉を実践しているすべての同修の手に渡りました。当時、連絡担当の同修は新聞紙を使って印刷したA4用紙を小さな筒に丸め、朝市で短時間に配っていました。初期の大法弟子たちは皆、明慧の情報伝達によって全体を成して行ったのです。

 しかし、わずか1週間後、私たちが借りた家は邪悪に目を付けられ、警察が来る前にデスクトップパソコンを運び出しました。あの夜、私と技術同修は腕を組んで、敷地内に入ってきたパトカーのヘッドライトの前を通って出ていきました。

 その後、私たちは郊外の農村や市内の同修の家を転々とし、床に寝泊まりもしましたが、明慧とのやりとりが途切れることはありませんでした。ある夜、田舎の家の中庭で、明慧とのやりとりを終えた後、私たちは寝る支度をしながら、明るい月明かりの下で、師父が帰ってこられた時には何を着て、どのように挨拶しようかと考えていたものです。私達は当時、20年以上も経ってしまうとは想像もしていなかったのです。

 それから、明慧の交流記事の影響を受けて、大法弟子全体が成熟し、多くの修煉者が法を実証するために出てきて、いたるところで真相資料拠点が開花し、ますます多くの世の人々が目覚め、救われていくのを目の当たりにしました。

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2023/6/29/462455.html)
 
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