「利己主義」と「私」の崖っぷちから立ち戻る
■ 印刷版
 

文/海外の大法弟子

 明慧日本2023年8月20日】この前、明慧編集部が「へつらうことと自らの心から魔が生じること」を発表しました。私はそれを読んで、修煉のことは厳重に思うべきであることを再び認識しました。

 私は1997年に法を得た弟子で、法を得てからもう26年経ちました。 私はいつも心の底から「自分は真の弟子だ」と感じてきました。 しかし、最近うちに向かって探す過程で、長年いろいろなことをやってきましたが、多くの面で修煉を実践できていないことに気づき、恥ずかしくなりました。

 自分の心を深く掘り下げてみると、心の奥底にたくさんの人心や執着があり、その最も明白な表れが「利己主義」と「私」であることを知り、自分でも驚きました。

 師父は『オーストラリア法会での説法』で「私心があれば、情に動かされやすくなります。修煉の中で、どんなことも放棄しにくく執着を取り除きにくいという現象として現れてきます。大法のために何かをする時も、自分の役割、自分の名、自分の好みを守ることに執着することも現れます」[1]と説かれました。

 私には「利己心」「情」「名」といった執着が常にあり、修煉の中で何度も何度もそれを取り除くことを試みましたが、その根源を取り除くことができませんでした。

 他の人に褒められた時は、嬉しくなり、時には「称賛の言葉を求めてはいけない」、「歓喜心が生まれないように」と自分に言い聞かせるものの、同修や同僚、家族の認めや称賛を求めていました。その表現として現れるのは、あらゆる場面で「自分を証明したい」という考えで、その根源にあるのは「私」の存在なのです。

 一方、他の人が自分の「名」について攻撃したり、自分を批判する意見を出した場合は、不快になることが多く、ひどい時は、相手を恨む感情まで生じていました。同修、常人に対しても同じて、「悪で悪を制する」という考えが浮かび、心が狭く、ほかの人に対して寛容さを持てなくなりました。

 これらのことは自分が意識してやっているいるわけではありませんが、このような自分への弛緩は、主意識がはっきりしておらず、精進していない現れです。また、 このような心を根絶することができなければ、極めて危険であり、「自分の心より魔が生じること」の前兆です。 これらの悪い執着や観念は、自分が行うすべてのことに現れます。

 しかし、これらの執着心や観念は、表面的に重視されるいわゆる「修養」や「平和」で隠されているため、自分でも気づかないのです。

 私に自ら自分を直す機会を与えてくださった師父、そして、これらの執着心に注意を促してくれた『明慧編集部』の指導に感謝します。そのおかげで、本当に心を静めて自分自身を深く掘り下げ、持ってはならない人間の心や根本的な執着心を見つけることができました。

 うちに向けて探した過程で、表面的にはそれほど大きなトラブルや摩擦がないように見えても、心の中では生死の境をさまよっていたような感じがしました。

 今日学法をした後、私は心の底から、本当に自分を修め、あらゆる恨みや嫉妬を捨て、修煉者として心を開き、自分を本当の大法弟子とみなし、「利己主義」と「私」の崖っぷちから立ち戻らなければならないと思いました。 これからの修煉で、三つのことをより純粋な心で行っていきたいと思います。

 以上は、私自身の限られた次元での未熟な体験です。同修のみなさんの慈悲なるご指摘をお願いします。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『オーストラリア法会での説法』

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2023/8/7/463908.html)
 
関連文章