大法子供弟子:私の執着心を取り除いた体験
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文/中国の大法子供弟子  

 【明慧日本2023年12月6日】私は大法の子供弟子で、生まれてからずっと家族に従い修煉をしてきました。成長し思想も成熟していくにつれて、私は単純に法を読むことから法を理解し、法理を悟るようになり、さらに自分の人心を見つけ出し、発正念してそれを取り除くこともできるようになりました。以下に、この1年間で私が人心を見つけ出した過程のいくつかをご紹介します。

 一、名利を求める心を取り除く

 私が12歳の時、父が他界し、祖父母は遺産分割の際に不動産と金銭を求めて、法的なルートで得られる額をはるかに超える金額を要求してきました。同修である母から意見を求められて、当時まったく金銭の概念がない私には、「彼らはなぜそんなにたくさんのお金を欲しがるのか?」という疑問が生じました。そのとき、師父の説法が目の前に現れました。「煉功者としては、どのように失と得に対処すればよいでしょうか? それは常人の場合とは違います。常人が得ようとしているものは個人の利益で、どうすれば暮しが良くなるか、どうすれば楽に暮せるかということです」(『轉法輪』)。法理をある程度理解した上で、私は同意しました。しかし、その後の数年間、この件は繰り返し頭に現れて私の名利心を刺激し、終いに私は祖父母に対し不満を抱くようになりました。その都度、私は正念を発してそれを否定し、排斥し、取り除くように努力しました。今はまるで忘れてしまったかのように、それが自分からますます遠ざかっていくのを感じています。

 年齢を重ねるにつれて、私のお金に対する意識が知らず知らずのうちに強くなってきました。高校生である私は、毎日たくさんの勉強をこなさなければならない上にクラスメイトや先生との付き合いにも直面しています。例えば、クラスメイトが急にティッシュペーパーを必要とした時、机の上にティッシュを置いている人から借りることがあります。少ないときは1枚、多い場合は6~7枚も借りていきます。最初、私は気前よくティッシュボックスを机の上に置いていました。段々と私がティッシュを持っていることを知るクラスメイトが増えて、先生までもって行くことがありました。そうすると、自分がほとんど使わないまま、ティッシュはすぐなくなってしまいました。ティッシュボックスの中身が見る間になくなった後、私は少し心のバランスを崩しました。「どうして皆が私のティッシュを使うのか? 無料サービスをしていないよ」と思った私は、ティッシュをカバンに入れておき、自分が使う時やクラスメートに貸す時だけ取り出すようにしました。次に、クラスメートとの間でお菓子をシェアする例を挙げてみます。近くにいる数人のクラスメイトと静かに分け合うならまだしも、遠くにいるクラスメートに気づかれて、そこまでお菓子を回していけば、自分の手元に戻ってきたときはほとんど残っていませんでした。そこで、私は好きなお菓子を近くのクラスメートとだけ静かに分け合うことにしています。また、最近の私は、携帯電話の使用中にクーポンなどもよく留意するようになっています。これらは、子供だった時の私が決して取らない行動でした。こうした自分の考えや行動の変化に気づいた私は、お金を重く見るようになったにもかかわらず、母がお金を稼ぐために苦労してほしくないという口実で、ますます膨らんでくる自分の名利心を隠していました。そこで、私は発正念をしてこの執着心を取り除きつつ、皆がティッシュを使うことやお菓子を分けてあげることに特別気を遣うことをやめました。

 二、一瞬で頭を過るネガティブな考えを捉える

 子供の頃から、私は頭の中で物語を作るのが好きで、多くのアニメの画面やプロットを空想しながら、そこに自分自身を登場させ、とてもマイナスなものが多くあっても気づきませんでした。それが頭の中にあったもので、大人に話したことがなく、今日までずっと続いています。

 一例ですが、新型コロナウイルスが大流行してから、私もオンラインで授業を受ける生活を始めました。欠席するクラスメートが日に日に増えて、ひどい時には20人以上が授業に出られないのを見て、私は少し不安になりました。数日後、家族にも発熱の症状が現れて、私の不安がさらに募り、正念でそれを排斥したものの、完全に払拭することはできませんでした。案の定、翌日には私も熱が出始めました。幸い、家族(同修)とともに正念を発し続けた結果、仮相はまもなく消えました。もし私が法を堅く信じて周囲の状況に動かされず、強い正念を持ち続けることができていれば、発熱という仮相も現れてこなかったでしょう。

 また私は、怪我をすることを望むというとんでもない考えをよくしますが、怪我をしなかったため、あまり気に留めませんでした。先日、運動会の2日前の午前中に、階段を上っていく途中で、突然転んでしまい、膝に大きなあざができました。しゃがみ込んで辛くなりましたが、運動会の参加には影響しないだろうと思い、気にしませんでした。ところが、午後、階段を下りていたときに、クラスメートの靴を踏んでしまったはずみに、私は右足を捻挫してしまい、足を引きずって歩くしかない状況になりました。 心配と怒りの中で、私は師父に助けを求めながら、これまで思っていたそのよくない考えを脳裏からきれいに排除するよう努力しました。慈悲なる師父のご加護のおかげで、私の足は大会当日にほぼ回復し、無事に試合に出ることができて、そこそこ良い結果も達成できました。旧勢力はとても狡猾であり、このようなマイナスの考えは頭の中を一瞬に通り過ぎるために、すぐに捉えて一掃し、旧勢力に隙に乗じられないようにしなければなりません。

 三、法を師とし、正念を持って正しく行う

 小学校の時、私は学校の吹奏楽部に入りました。師父から才能を授かり、私は中学2年の時に10級に合格し、学校の先生からも高く評価されました。高校入試の直前、先生は母と私に、関連費用さえ出せば、市の重点高校の内定者の枠を一つ取ってくれると言いました。これはどの生徒にとっても絶好のチャンスですが、私はそれが試練だと感じました。師父は『轉法輪』の中で以下のように説かれています。「例えば、常人社会において、彼が生まれたあと、家にも学校にも、あるいは大人になれば職場にも、みな彼の存在があり、彼の働きを通じて社会各方面とのつながりが結ばれます。つまり社会全体の構成はすべてこのように配置されているのです」。「修煉でいつも自然に任せることを強調するのは、そういうわけです。努力することにより、他人を傷つけてしまうかも知れないからです。もともとあなたの人生の中にないもの、社会において他人に属するべきものを手に入れてしまえば、他人に借りを作ったことになります」。自然の成り行きに任せるという法理を理解してから、私は自らの努力をもって、師父が按排して下さっている高校に合格しようと心に決めました。

 以上は、私の最近の修煉中の心得です。妥当でない部分があれば、ご指摘をお願いします。

 (編集責任者:李明)

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2023/10/13/大467037.html)
 
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