恨む心と求める心を修める
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文/中国の大法弟子 小梅

 【明慧日本2023年12月10日】最近、師父の新経文を学んでいくつかの気付きがあり、同修の皆さんと交流したいと思います。

 自分の怨恨心をだいぶん取り除けたと思っています。特に姑と夫に対してはそんなに怨恨心はないはずだと思っていました。しかし、長い間、時折息苦しく感じ、忙しくない時には喉から臭い痰のようなものを吐き出すこともあります。時には内臓からガスが出てくるような感覚もあり、とても気分が悪かったのです。うちに向けて執着心を探したり、師父に保護を願ったりしていましたが、状態は変わりませんでした。

 ある夜、夢を見ました。夢の中で「清朝時代に、私は一人の官員で、ある人を尋問していました。私は激怒して、タオルでその人の口と鼻を塞いで窒息死させてしまいました」。私は、あまりの驚きですぐに目が覚めました。過去にこんなに大きな業力を作っていたとは、今世師父の慈悲の済度がなければ、生々世々で出きた命の借りをどう返せるのかとびっくりしました。師父がすでに大部分の業力を受けもってくださり、弟子がわずかしか受け持ってないのに、ちょっとした些細なことで、直ぐに不機嫌になってしまってよいのか? と反省しました。

 ある日、仕事から帰宅した直後、呼吸器に関わるところが非常に不快で、鼻の中や喉が痛くて眠れませんでした。横になったり、立ったりしながら、頭の中で「法輪大法は素晴らしい、真善忍は素晴らしい」と唱え続けていました。私は以前自分のせいで傷つけた命とコミュニケーションを取ったこともあり、彼らを善解すると願いましたが、それでも私は相変わらず苦しんでいました。

 翌日、鼻の中から非常にどろどろとした黄色の膿痰がたくさん噴き出しました。その後、鼻が詰まったように感じ、外に向かって噴き出すと、鼻の中から豆粒大の丸いものが一つ出てきました。少し硬くて、伸びがあるものです。しばらくして、もう一つそのようなものが出てきて、やっと鼻が少し良くなりました。

 高校に通っていた時、まだ十代の学生でしたが、鼻が詰まり、胸が重く、頭がボーとしていました。体調が悪くて、勉強にも集中できませんでした。法輪大法を修煉してはじめて、自分の業力が原因だと理解できました。

 外出して真相を伝え、人を救い済度する活動をしている間、仕事中は基本的に痰を吐くこともなく、あまり不快な思いもありませんでした。しかし家で法を学び、煉功する度に、痰をずっと吐いたり、時折息苦しさを感じたり、体から絶えず息を出す状態が数年間も続いていました。私はただ単に自分の業力が大きいからだと思っただけで、内に向けて自分の執着を深く探すことはありませんでした。

 最近、心を込めて法を暗唱したところ、師父が悟らせてくださいました。一気に、深く隠れていた恨む心が見つかりました。以前、私はある人を助けるためにお金を出したことがあります。心の中で、「彼女が貧乏な時に、私は服を買ってあげたこともあるし、お金もあげたこともありますが、今は彼女が豊かになったのに、私に感謝の意を示すことすらなかった」と思っていました。その一瞬で理解しました。私は人からの報いや感謝を求めたりしているのです。それが得られない時に、直ぐに不機嫌になってしまうことこそ、恨む心ではないでしょうか?

 続けて、たくさんのことが浮かびました。「家族に対して、私のため夫が何をやってもやるべきだと思い、満足してくれないと私は直ぐに不機嫌になってしまう」、「子供に教えるときも同様です。子供が私の言うことを聞いてくれないと、私は直ぐに不機嫌になってしまう」、「他人が私の思い通りにならないと、私は直ぐに不機嫌になってしまう」などなど、皆恨む心ではないでしょうか。時折心が苦しくなり、自分は情が強いだけだと思い、家族への情を放下する必要があると内に向けて探したこともあります。時折自分はもう情が薄れて、心も冷えてしまうこともあります。しかし、今になって、やっと「この全ては恨む心が作用しているのです。本当に情を放下できたら、慈悲で置き換え、人に対して心から善を持って、他人のために考えるべきだったのに、私のこの冷たさは、全然善のものではなく、恨む心だった」と悟りました。

 さらに深く考えると、私はいつも人間の理で人に要求し「私があなたに良くしてあげたから、あなたも私に良くしてくれるのは当然だ」との考えがありました。「あなたは私の娘で、私に対して親孝行するのが当たり前だ」、「あなたは私の夫だから、私を気遣ってくれるのも当然だ」、などなどです。また「誰かの発言が私を不快にさせたり、誰々の品性が悪いから、一緒にいるのが難しい」などのような考えばかりでした。その全ては人間の中で回っているだけで、期待通りにならないと、直ぐに恨む心が生じ、人と人の間には業力の輪廻があることを忘れていました。

 情を超え、修煉者の視点から問題を見ると、私たちは真、善、忍を修めているため、家族や友人や同僚または衆生に対して善良で対処することは当たり前のことです。何かを求めるべきではありませんし、報いを求めるべきでもありません。他人が自分に対して悪い態度をとった場合、借りを返せばいいので、私達は怨みや恨みを持たず、相手に親切に接するべきです。他人に対して何も求めないことこそ、私たちが持つべき善であるかもしれません。

 法理に従って悟った途端、心の中の恨みも消えました。その後、煉功したとき私の体内から寒気を排出させるのを師父が手伝ってくださいました。胸の苦しさもなくなりました。弟子はただただ精進したいと思い、師父に感謝いたします。

 もし、不適切なところがございましたら、同修からのご意見や慈悲なるご指摘をお願いいたします。

 
翻訳原文(中国語):https://www.minghui.org/mh/articles/2023/10/6/466781.html
 
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