【5.13応募原稿】 モルドバ人学習者:褒め称えもトラブルも試練である
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文/モルドバの大法弟子

 【明慧日本2024年1月2日】李洪志師父はこのようにおっしゃっています。「修煉者として、常人の中で遭遇した一切の苦悩は、みな関を乗り越えることであり、遭遇した一切の褒めたたえは、みな試練なのです」[1]

 上記の経文の中で、師父が言及されている日常生活の中で遭遇した褒め称えとトラブルをどう扱うべきかにおいて、最近、私はより深い理解を得ることができました。皆さんと修煉体験を分かち合う前に、まず、私が自分の修煉を始めた経緯からお話ししたいと思います。

 一、法輪大法を修煉し始めた経緯

 人生の意義を必死に探し求めていた中、2009年2月、私は夫に出会って法輪大法を知り、心にこの上ない落ち着きと安らかさが訪れました。これこそが、私が長い間ずっと探し求めていたものだと分かりました。世間でみれば、私は人生の伴侶を見つけて、願いが叶えられました。実際のところ、私は本当の自分を見つけたのです。

 その前にいくつかのヒントとエピソードが、師父がずっと私たちを見守って下さっていることを示してくれました。

 ヒントは、ポートレートを撮ってくれたカメラマンに「あなたはじき結婚するように見えます」と言われたことで、その頃、私は薬指の周りにとても温かいエネルギーが流れているのを常に感じていました。エピソードと言えば、会社のホワイトボードに「結婚相手を募集」と冗談めかして願いを書き、申し込みの締切日まで決めました。

 当時、私はエクササイズとしてヨガをやっていました。ヨガクラスで気づいたのですが、ヨガ上級者は長時間結跏趺坐して座ることができます。どこかに行って、もっとエネルギーを蓄えたいと思った私は、他のコースも調べました。

 2009年の初め、ある有料コースの案内を受けて、私は料金を支払って受講しようと考えました。講座に誘ってくれた女性に、私は「私たちは人を救うために地球にいるのかもしれません」と話したのを覚えています。その後、その講座を担当するはずだったインストラクターが病気になり、その講座はキャンセルされました。

 数日後の2009年2月、私は未来の夫に出会いました。彼は私に有料コースを受ける必要がないと言い、代わりに法輪大法を教えてくれました。彼に出会う数カ月前に、私はとても素晴らしい音楽が聞こえていました。2週間後、私たちは結婚書類を提出し、3週間後に結婚しました。そして、結婚の期日は、2008年12月に私が冗談めかして決めた締切日の前でした。

 また、師父がこのような形で私の精神的な探求に答えて下さったことを悟り、法輪大法の修煉を始める決心をしました。

 二、職場で修煉し、迫害の実態を伝える

 職場は私たちの多くの時間を費やす場所であり、迫害の実態を伝えるのに有利な環境でもあります。ここ数年、私の同僚たちは、私が送った蓮の花やその他の資料を受け取り、「真善忍美術展」を訪れたり、夫が行なう中国の茶道に参加したりしていました。

 以前、政府機関で働いていたとき、私は何人かの同僚にさまざまな方法で迫害の実態を伝えていました。今ではそのうちの何人かが政府高官になっています。

 私が教育部で働いていた時、当時の部長は私たちの中国茶芸のショーに参加しました。その後、私は彼女に『轉法輪』と蓮の花を贈りました。彼女は中国共産党による法輪功への迫害をよく知っており、現在、国の高級官僚を務めていて、その誠実さ、腐敗と闘う勇気が賞賛され、国民の福祉を第一に考えることで知られています。

 真相を伝える際、理性的に行うことが大切です。修煉し始めて間もない頃、私は首相官邸に勤務していて、DAFOHの署名集めをしていました。ある日、私は隣のオフィスに入り、そこにいた女性の高級官僚に、中共による生体臓器狩りを非難する署名をお願いしました。彼女は私に、仕事中にそのようなことをしてはならないと忠告しました。私は彼女に今日の勤務が終わったこと、そして中国で何が起きているかを知ることの重要性を伝えました。後で聞いた話ですが、彼女は上司に私のことを褒めてくれたそうです。

 私が別の団体で6年近く働いたことが、教育機関と繋がりを持つきっかけとなりました。そこで、私たちは「平和の花びら」プロジェクトを実施し、蓮の折り紙を教える授業を行い、数百人もの子供たちと教師たちに『蓮の花の物語』という童話を上映しました。

 私の理解では、大法弟子は自分と関わる人々を救う責任があります。しかし、大法のイメージを損なわないためには、自分がいる国の背景や文化を考慮し、特に知識人を相手にするときや学術的な環境の中にいるとき、適時、適地、そして適切に真相を伝える必要があると思います。

 師父はこのようにおっしゃっています。「実際、修煉とは人の心を修めることであり、特に複雑な職場の環境にあっては、まさに心性を高める良い機会なのです」[2]

 職場もまた、心性を高めるのに良い環境です。修煉し始めた当初、私は興奮のあまり、世の中の何にも興味を持たなくなりました。後で気づいたのですが、それは極端に走った態度でした。良い弟子になりたければ、まずは良い同僚、良い社員にならなければなりません。私の理解では、誠実であること、仕事に全力で打ち込むことは、同僚、上司、パートナー、そして私たちのサービスを受ける相手に対して責任を持つことです。考え方をこのように改めた後、私は同僚や上司から尊重されるようになりました。

 教育省に勤務していたとき、私は賞状と、感謝の手紙、そして米国留学のための1年間の奨学金をもらいました。大臣は米国の奨学金申請のための推薦状の中で、「彼女には高い道徳性がある」と付け加えてくれました。私はとても感動しました。

 法輪大法の法理に従えば、大法弟子は価値のある専門家になることができます。大法は私たちの知恵を開かせて下さるからです。また、私たちはどんな問題や衝突も迅速かつ徹底的に解決することができます。同時に、高まった集中力によって最大限の効率が得られ、心が常に穏やかでいるので、物事をより広い視野から見ることもできます。重要なのは、私たちはこれらの成果を求めておらず、達成後に有頂天になることもありません。

 ある国際機関の理事が私の上司の前で、私が某大学教授との衝突をうまく処理したことを称賛し、私に自分のNGOを設立して、彼らと協力して開発援助プロジェクトを行うことを提案しました。

 私の前職の上司は私の文章力を褒め、最も困難な仕事を任せても、難なくこなせると言ってくれました。1年前に私が辞職した時、彼女はとても悲しんで、自分の主任の座を私に譲ろうとしました。しかし、私が担当していたプロジェクトが終了したので、新しい仕事を探すことにしました。

 私はすぐに新しい仕事を見つけました。新しいポジションが自分の経歴にぴったり合っていて、私は試してみることにしました。後になって分かったのですが、厳しい心性の試練がすでに修煉の新たな段階で私を待っていました。

 三、最も深い執着が暴露される

 数人から、新しい上司のAさんが気難しい人だと聞き、Aさんと宗教についてちょっとした論争があった後、私は彼女について否定的な考えを抱き始め、それらの考えが正しくないことに気付くことすらできませんでした。また、「この分野では、私は彼女より経験が多く、知識も豊富なので、きっともっとうまくやれる」という思いもどんどん強くなりました。

 数カ月後、Aさんは産休に入り、その主任の座を私に託しました。同じ時期に、私たちは新しい同僚Bさんを臨時雇用しました。数カ月間、私はBさんが環境に慣れるよう、一緒に彼女の仕事をしていましたが、Bさんは自分がこの分野についてよく知らないと思い、離れる気になりました。冬休みに、Bさんは長くて真っ赤な爪を付けました。休みが終わっても、彼女は真っ赤に塗られた長い爪を落とさず、毎日つけたまま私の目の前で行ったり来たりして、私をいらいらさせました。1カ月後、重要な協定の調印式の準備をしていた時、私は苛立ちが我慢できなくなり、彼女のマニキュアについて不適切な発言をし、本番の式典に参加したいならマニキュアを落とすよう彼女に要求しました。その後、国外にいるBさんは上司に苦情を言い、会社を辞めました。

 師父はこのようにおっしゃっています。「どんな執着心であれ、それを持っているかぎり、さまざまな環境の中でそれを少しずつ削り落とさなければなりません。さまざまな失敗を経験させ、失敗の中で悟らせることこそ修煉なのです」[3]

 その後の1カ月間、私は内心の葛藤を経験し、心情が良くなったり悪くなったりしました。「これが向上のための絶好の機会であり、『ありがとう』と言うべきだ」と思ったときもあれば、「この数カ月間、どれだけ助けてあげたのに、文句を言うなんて!」と不満に思うときもありました。発正念を重ねた結果、私は優越感や名誉を失うことへの恐れ、事をたくさんこなす心、常人が修煉者の基準に達することを期待しているなど、多くの執着心を見つけました。

 師父がどれだけ私たちを大切にして下さっているかが分かった時、私は感動の涙を流しました。師父は私たちに何度も向上の機会を与えて下さり、それでも私たちが過ちに固執して悟ろうとしない時、私たちが目覚めて自分の執着に気づくことができるように、師父は厳しい試練を按排されました。

 これまでの私には、「私が責任者になったらもっとよくできる」という考えが芽生えていましたが、結果的にBさんに訴えられて、上司からの詰問に直面せざるを得なくなりました。事件を振り返ってみると、結果は本当に意外だったと思いました。それまでの私は同僚や上司に評価されていて、Aさんに不満を漏らす人が多かったのですが、今、私が「悪人」になってしまいました。しかしそこで私は、「修煉しているのは私で、常人ではない」と考えを改め、私を向上させるために師父がこのような状況を按排されたと思いました。

 人類の環境はすでに非常に堕落していて、ときに人間社会にいることは非常に難しく感じます。しかし、私たちは物事を意図的に変えてはならず、他人を変えることはなおさらしてはならないことを知っておかなければなりません。私たちが真っ先にすべきことは、自分自身を変え、法を正す師に手伝うことです。間違った考えには細心の注意を払い、それらを取り除かなければなりません。注意を払わなければ、私たちの取るに足りない些細な発言であっても、周囲の人々には雷鳴のように聞こえてしまうかもしれません。彼らは私たちの言動に注目しているのです。

 私は深い教訓を一つ得ました。それは、褒められても自惚れてはならず、仕事の中で批判されても動揺しないことです。どちらの場合も、内に向けて探し、物事をうまく処理できる知恵を与えて下さった大法に感謝すべきです。

 この体験文を書きながら自分の考えを整理していく過程で、私はさまざまな角度から自分を観察し、理解を深めることができました。また、心がすっきりして、落ち着きも取り戻しました。師父のご加護に感謝し、自分の根本的な執着を見つけて取り除くことができる二度目のチャンスを下さった師父に感謝しています。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『精進要旨』「修める者はおのずとその中にいる」
 [2] 李洪志師父の著作:『精進要旨』「退職した後に修煉する」
 [3] 李洪志師父の著作:『轉法輪』

 (明慧ネット第24回世界法輪大法デーの入選文章)

 (編集責任者:斉昕宇)

 
翻訳原文(中国語):https://www.minghui.org/mh/articles/2023/5/20/460961.html
 
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