文/カナダの大法弟子
【明慧日本2024年6月7日】先日、明慧ネットに掲載された「東北部の同修たちの『闘争心』について話す」という記事を読んだことがきっかけで、同修Aさんと中国南北の文化の違いについて話し合ったことを思い出しました。
海外では、中国の南と北から来た同修が、同じ都市に住んでいることがあり、接触したら互いに思考回路の大きな違いを感じる時があります。例えば、私は上海出身で、Aさんは北京出身で、私たちは同じ女性で年齢も近いのですが、互いに相手が考えていることを「つかめない」と感じたりすると、二人は積極的にコミュニケーションを取ります。
交流してはじめて、世の中にはこんなにも異なる思考の仕方があることに驚きました。思考回路の違いを理解することで誤解を減らし、良きコミュニケーションを促すことができたと思いました。二人が認識した南北の文化の違いは多くありますが、ここではいくつかの例を挙げてみます。
Aさんから聞いた話によると、北方の人々の考え方には「目立つこと」、「手柄を立てたい」、「派手さ」、「エネルギッシュ」を好み、「名声あるもの」に惹かれやすいようです。また、「口数が少ない」や「群れない」ことを「ネガティブ」な性格と捉えがちで、「情けない」ことや「弱気を認める」ことを「許しがたい恥」と感じることが多いようです。
彼らは対立を解決する方法として、最も優先的に選ぶのは「相手を圧倒する勢い」です。人との関係を築く際、優しさを示すために最も重視するのは「義理」や「情熱」です。相手に安心感を与え交流を深めるために、初めて会う人には明らかに友好的な姿勢を示すのが一般的です。友達になったら友情がとても強くなりますが、喧嘩になるとすぐに関係が壊れやすくなります。内心では「目立ちたい」という願望があるものの、周りが同じような人ばかりだと認識しているため、「見栄を張る」と批判されないように、素直に自慢するのではなく、さりげなく魅力を見せる技を使うことがあります。彼らは「団体意識」を大切にし、力を得るために「人数を集める」ことが重要だと思っています。
私が思うには、上海の人々が大切にしているのは「従順」、「頭の回転が速い」、「できる限り人と正面からの衝突を避けたい」、「うまく立ち回ってひどい目に遭うような馬鹿なことをしない」、「賢さ」、「実利を求める」、「問題を細かく見分ける能力」、「群れることをしない」、「黙っている」などがあります。「耐えられない」ことを「品格がない」と見なします。問題の解決に「逃げ足が速い」、「無駄にエネルギーを消耗したくない」を最も優先的に選択します。人との交流に「境界線をしっかり引く」、「他人に迷惑をかけないようにする」を理想的な倫理とします。人と表面的な「親密さ」を築くことができますが、深い関係を築くのは難しいです。争いは少ないが、親密な関係を築くのが難しいがゆえに疎遠になりやすいのです。内心では「控えめ」ですが、「面倒を避けて労力を省きたい」ことを好み、周囲はみな同じような人であると知っているため、かえって自分の長所を大胆に褒めることができ、「後で自分も相手も気にしない」と考えています。これは西洋人の「透明」に似ています。「自分の権利」を大切にし、「物質的な手段」を頼りにしたいのです。
上記に挙げた南北の文化の特徴は、男女問わずその地域の人々に一般的に当てはまります。考えてみれば、南北の文化のそれぞれの特徴に大法が要求している要素を含んでいます。法を正す時期には、南北の文化要素がいずれも良い役割を果たしました。
現在、ネットで南北の文化がよく議論され、賞賛と嘲笑が混在しており、いずれも南北の文化の本質を明確に語っていないような気がします。師父のお教えを学んでから人体、宇宙、生命の視点から物事を見ればより明確に理解できるかもしれないと思いました。次に、自分の理解から南北の文化について話したいと思います。
南北の文化が一つの生命体の中の陰と陽のようで、いずれも不可欠なものだと思います。北方文化と南方文化、どちらが「優れている」か「劣っている」かについて、議論する意味がないと思います。南方も北方も、神々が組んだ段取りの下でどちらも輝かしい時代を迎えたことがあり、神が異なる時期にそれぞれに栄光の時を与えました。どちらかをより「輝かしく」させることを、特に神は考えていません。また、南方の文化も北方の文化も、それぞれ異なる優れる部分があるのは、人体の各部位が唯一無地の機能を持つのと似ています。
生命体内部の各「機能」とは、神がそれぞれの「機能」に任務を与え、任務に応じて能力を授けたようです。任務を遂行する際、その能力は長所となりますが、違う任務にとってそれに適さない能力は長所ではなくなります。このように考えると、問題は非常にシンプルになります。
南北の文化は、生命体の中に存在している二つの独立した生命のようです。二つにはそれぞれ良い時期と衰退の時期があります。末法時期にどんなものも衰退しているため、一つの物事の欠点を「嘲笑いたい」なら、いつでも「あら」を見つけることができます。しかし、それに良い部分も残っているため、賞賛したい場合は賞賛すべき点を見つけることもできます。物事の長所を発見し、上手に利用することができれば、皆にとって良いことです。問題点ばかりを探すと、目の及ぶところはどこでもゴミだらけで、結局は得策ではありません。
師父は『二〇〇三年元宵節での説法』で、「大法弟子はどんなことに対しても真正面から取り組むべきです。相手の良くないところを見るのではなく、いつもその人の良いところを見るべきです」と説いておられます。
大法を学んだことで、三界すべてが衆生を救うために創世主によって作られたことを理解しました。そうすると、五千年の神伝文化を持つ中国における南北の文化は、決して単純なものではありません。私たちは、「南北の文化」という現象を常人の考え方で簡単に捉えるのでなく、修煉者としての知恵を使って理解して、その文化の資源を大切に活用することを通じて文化の違いによる不必要なトラブルを避け、より良いコミュニケーションと理解、協力を実現すべきです。
Aさんは、「弱さを見せることを恥じない」という南方の文化を理解することは、彼女の闘争心を改善するのに大いに役立ったと言いました。私は、北方の人々が大法を実証する際の積極性が、私にも良い影響を与えていると感じています。
この文章を通じて、南北の文化をより公平に、互いに理解し尊重する姿勢で見つめ直すことを願っています。私たち大法弟子は、すべての面で正しい道を切り開くことができると信じています。