文/中国の大法弟子
【明慧日本2024年7月1日】私は1995年に、まだ中学生だった頃に法輪功を学び始めました。この約30年間の修煉の中で、いつも法輪功の素晴らしさを体感していました。魔難を乗り越える過程の中で、難しさや苦しさを感じることがあったとしても、毎回、自分の心性が向上した後に生命の永遠の喜びを感じていました。迫害に耐えることがあっても、人を救う使命を担うことがあっても、時折修煉者ならではの喜びを得ることができ、それは常人が想像すらできないことです。修煉とはこの世の中で最も喜ばしいことです。
この世の名・利・情というものを知らない状態から、それに染まり、再び少しずつ心性が向上する中で、様々な執着心を取り除く魔難に遭遇しました。その中でも嫉妬心は特に取り除くのが難しく、何度も繰り返し、様々な形で現れてきました。
1、不満は嫉妬心なのか?
大学卒業後、私は創業して間もない会社に入社し、1年半のうちにマネージャーに昇進し、順調でした。後に名門大学を卒業したDさんという女性が入社し、私と同じ寮に住み、別の部署で働いていました。年齢が近かったこともあり、毎日顔を合わせるうちに親しい友人となり、一緒に行動することが多く、同僚たちからは私たちの関係がとても良いと思われていました。Dさんは非常に優秀で、入社して1年経たないうちに総マネージャー補佐に昇進し、私よりも上の地位に就きました。
Dさんは公正で、大公無私(たいこうむし:個人的な意見をはさむことなく、公平な立場を貫くこと)であり、大法を修煉していませんが、私から見ても素晴らしい人であり、親しくしたいと思っていました。ある時、Dさんがある同僚と意見が食い違い、私は陰でDさんに不利なことを言い、Dさんの立場を困難にさせました。これはDさんが昇進してから、私が初めて彼女を困らせたことです。
似たようなことが数回続き、Dさんは非常に困惑していました。ある日、Dさんと衝突したとき、私は自分がDさんに嫉妬していることに気付きました。この嫉妬心が私に理性を失わせ「なぜ彼女がその地位に就けて、私は就くことができないのか?」という気持ちを常に抱かせていました。自分の行いに気付いた後、自分の行動を強制的に修正し始めました。その同僚と一緒にDさんを困らせることを止めたのです。しばらくすると、心の中の不満が徐々に消えていきました。
私は嫉妬心という魔難を乗り越えられたと思い、少し自慢げに感じていました。しかし、これは始まりに過ぎませんでした。その後の10数年の仕事の中で、嫉妬心は影のように潜んでいました。
2、感じる「不公平」は嫉妬心か?
その後、私は新しい会社に転職し、いくつかの部署を異動し、直接の上司も何度か変わりましたが、Cさんはずっと私の上司でした。10数年間の間に昇進の機会があり、昇進したとしても、Cさんは、なにかと理由をつけて私を降格させました。私はCさんの実力も限られており、そして嫉妬深いから、私に対して、このような仕打ちをしているのだと思いました。特にCさんが人を攻撃するとき、私に味方になるようにと話しかけてきました。何回もきましたが、その度に私は断ったので、私の立場はさらに困難になりました。私はますます自分が正しいと確信し、Cさんが道徳的にもその地位にふさわしくないと感じるようになり、Cさんが会社内で派閥を作っていると見ていました。時間が経つにつれ、昇進に対する関心を失いましたが、逆にCさんの職位はますます高くなりました。表面上は問題ありませんでしたが、心の中ではCさんに対する怨恨心が生じていました。
パンデミックの間、Cさんは数回ウイルスに感染し、後に咳が残るようになりました。最初は報いを受けていると思い、内心喜んでいましたが、次第に少し申し訳ない気持ちになりました。この人と私と縁があるのは法で救われるべき生命ということです。しかし、私は心の中に怒りがあったために、Cさんと意識的に距離を置いていました。もしこの生命が本当にその原因で救われなかったら、どれほど後悔することになるでしょうか? それで内に向かって執着心を探し始めました。
師父は「悪者は嫉妬心によって、私のため、怒りのために、自分が不公平だと言います」と、解かれました。(『精進要旨』「境界」)
Cさんによって、私は「不公平」な境遇になっていると感じていました。これは私の嫉妬心からでしょうか? 私が悪いのでしょうか? 答えは言わなくても明白です。
10数年の間、私は自分が妬んでいるとは思っておらず、Cさんの振舞いは明らかに間違っていると考えていました。私は「Cさんが悪い、私は正しい」という思考に深く陥り、ここまで読んでいる同修たちは笑っているかもしれませんが、これは非常に明白な問題でありながら、私自身は10数年も自己憐憫(じこれんびん:自分のことを可哀想だと思う憐れみの気持ち、感情のこと)になっていることに気付きませんでした。そのために、私は10数年もの間、前進できずにいました。
抜け出してみて初めてわかりました。私はずっとCさんが私の能力を妬んでいると考えていたのですが、実はCさんの言動は私自身に教訓を示していました。つまり、私の潜在的な嫉妬心を映し出している鏡だったのです。私が嫉妬心を持っているので、他人の嫉妬心が見えていたのです。
こういったことで、私は長年、嫉妬心を絶えず除き続けましたが、時折また出てきます。その時Cさんは、私が嫌がる行動をとり、私の心は浮き沈みを引き起こしました。私はこの人生に明るい兆しが見えるまでネガティブな負の思考を否定し続けました。最終的には、輝く点が見えてきて、心の中の怨恨心は消えました。仕事の状況も徐々に良くなり、今ではCさんの咳き込む声も聞こえなくなりました。
この過程は、話すことは簡単ですが、実際にはたくさんの紆余曲折がありました。私に深い教訓を残しました。嫉妬心は非常に恐ろしいものであり、常に警戒しなければなりません。
3、他人を羨むことは嫉妬心ですか?
身近に同修・Yさんという人がいます。20年以上にわたり、私たちは力を合わせて一緒に色んな困難を乗り越え、多くのことを経験しました。不思議なことに、私は時折、彼女から出ている特有の匂いを感じるのですが、他の同修たちはその匂いを感じず、彼女自身も感じていません。でも、その匂いは時々私を悩ませました。なぜなら、一緒の部屋や車の中にいると、その匂いで頭が痛くなるからです。Yさんは私に対してとても寛容で、毎回私の所に来る前にシャワーを浴びて清潔な服に着替えます。それで時には良くなることもあります。
これまでの年月で、Yさんは何度も迫害を受けて労働教養所や洗脳班、拘留所に送られ、非常に困難な道を歩んできました。昨年も再度迫害を受けて拘留所に1カ月間入れられ、その後保釈されましたが、仕事を失いました。Yさんは新しい仕事を探す際に、非常に苦労していました。
ある時、私たちはこの問題について深く話し合いました。Yさんは非常に率直に自己反省をし、自分のどのような執着心がこのような状況を引き起こしているのかを探りました。
嫉妬心について話したとき、Yさんは自分には嫉妬心がないと言いました。日常の付き合いの中で、私はいくつかの問題を感じていましたが、気まずさから今まで言い出せずにいました。しかし、同修の状況がこれほど深刻になったいま、何も言わないのはあまりにも無責任だと感じ「私に対して嫉妬心を持っていませんか?」と尋ねました。
これまで、私は割とまともな仕事に就いており、後に会社が上場し、家を購入し、普段は車を運転していました。Yさんは地元出身で、土地の再開発で立ち退きによりかなりの補償を受けましたが、彼女の会社は比較的小さく収入も多くはありませんでした。途中でより良い仕事に転職しようと何度も試みましたが、うまくいきませんでした。私は同僚に真実を伝えることがうまくいかず、Yさんにどうすれば良いかを相談したことがありましたが、その際に会社の状況を話すと、Yさんは非常に不自然な反応を見せました。徐々に、仕事や家、車といった問題、さらにはショッピングなどの些細なことに至るまで、Yさんも何かと口頭でしっぺ返しをし、一時期は接することさえも嫌がるようになりました。
Yさんは答えました。「羨むことは嫉妬心に含まれますか? 時々、少し羨ましくなることがあります」
羨望、嫉妬、恨みは、人々がよく語る言葉です。羨望から嫉妬心が生まれ、嫉妬心から恨みが生じます。羨望の中には嫉妬心の要素が含まれているのです。
この話し合いの後、Yさんは私に対する抵抗感がかなり減りました。それ以来、彼女の体からその特有の匂いを感じることはなくなりました。もしかすると、その匂いは嫉妬心の匂いだったのかもしれません。または、私が嫉妬心の試練を乗り越えることが難しかったため、同修が私にそのことをずっと知らせてくれていたのかもしれません。この過程も、私がCさんという人との難関を乗り越える時期だったのです。
4、他人の喜びを、共に悦べないことも嫉妬心ですか?
仕事の関係で、ここ数年はあるビジネススクールの教授とお話していました。彼のオンライン講義をよく聴くようになり、次第に彼の思考パターンを理解し、いくつかの問題について共感を覚えるようになりました。それで彼に非常に関心を持つようになり、昨年、彼がある問題に取り組んでいるのを知り、その問題に関心を持っていました。今月再び彼の講義を聴くと、彼がすでにその問題に突破口を見出し、理論を完成させ、実際に成果を上げていることに気づきました。一方で、私はあまり進展がなく、プレッシャーを感じ、数日間非常に落ち込み、自信を失っていました。
負の感情や思考が生じたとき、これは正しくないと気づき、内に向かって探し始めました。他人が突破口を見つけたことを喜ぶべきなのに、なぜ私は彼の成功に共感するどころか、プレッシャーを感じるのでしょうか? そのプレッシャーの背後には「なぜ自分はできず、彼にはできるのか?」という思いがありました。これも嫉妬です。
『転法輪』では、嫉妬心について、小学生が100点を取った例を挙げて説明しています。外国の隣人なら祝福し、祝うでしょう。それが人として正常な状態です。しかし、党文化の環境下で長く生活していたので、思考の異変に気づかなくなりました。
他人の喜びを自ら共に悦べないことも、嫉妬心の表れなのです。
五、嫉妬心の源は何か?
生老病死は魔であり、名・利・色・欲・情も魔です。これらはすべて三界の理を維持するための魔です。修煉者が常人社会で心性を絶えず向上させる過程は、三界のさまざまな魔の支配を突破する過程でもあります。師父は「嫉妬心を無くさなければ、人の修煉した一切の心が脆弱なものになります」(『転法輪』)と教えられました。なぜ嫉妬心は修煉者の心性を弱める強大な「エネルギー」を持っているのでしょうか? その源は何でしょうか?
江魔(江沢民)は、法輪功学習者を迫害するという歴史的な罪を犯しましたが、それは嫉妬心から来ています。旧勢力は、学習者には漏れがあるといって、彼らを試練にかけるために手段を選ばずに迫害しました。これは、学習者が基準に達するためだと言われていますが、これもまた嫉妬心ではないでしょうか?
嫉妬心は、さまざまな形で学習者に影響を与え、非常に狡猾です。修煉の過程で一層一層を突破し、それぞれの層で異なる嫉妬心が反映されます。人を見て心から喜びを感じるまで、善と慈悲の力を感じることはできません。嫉妬心があると、慈悲心を修めることも難しいのです。
この経験を共有することで、同修たちが最後の段階で嫉妬心に注意を払い、残りの道をしっかりと歩むことができるように願っています。
これは私個人の悟りであり、限られた次元のものです。
(編集責任者:李明)