内に向けて探すことを覚え、修煉が容易に
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 【明慧日本 2024年7月4日】偶然用事で、私は同修Aさんと車に乗りました。Aさんは、あの時、弁護士を雇うために同修Bさんが2000元を出したことを教えてくれました。その時私は胸がドキっとして、そのことを知らなかったと言いました。弁護士を雇った件は2012年のことです。私が留置所で拘留されたため、外にいた同修、張羅さんが弁護士を雇ってくれましたが、弁護士が来た日に私は帰宅しました。このことは、後から同修から聞いた話で、その時は費用の問題を考えていなかったので、尋ねることなく、過ぎ去っていきました。10年以上を経て、今日、同修がこのことについて触れ、さらにはBさんがこの件について尋ねてきたと言います。これは当時の2000元を返してほしいと言っているのに違いないと思いました。同時に、返すべきだ、借りを返すのは当然のことだと思いました。私は即座に、「そんな事があったの? 帰ったら同修Bさんに返すように」とはっきり言いました。口ではそう言ったものの、私の思考は素早く回転し、「10年以上も前のことを今になって言うの? 私だってかなり同修を手伝った」と言う考えが浮かびました。同修は修煉が足りていないと言う一念がまだ残っていました。

 家に帰ってから、自分が言っていることと思っていることが違うと分かり、内に向けて探し法に則っていない考えを正す必要があると思いました。恥ずかしながら、私は古い学習者で、27年間大法を修めていますが、覚えている限り、一度も問題をしっかり捉えて、真剣に法に照らし合わせて、内に向けて探し、自分を修めたことがありません。そこで私はこの件において、内に向けて探すことを学ぼうとはっきりと自分に言い聞かせました。私がこのような考えを持つようになったのも、この期間に法を暗記していたからです。私はすでに『轉法輪』を三回暗記しました。前の二回は基礎固めで、今回はもっと着実に暗記しました。心の中に法を入れていれば、物事に遭遇する度に、法と照らし合わせて、修煉を指導してくれます。

 私は一問一答形式で自分に問いました。このお金はあなたが使ったのではないか?ーそう、私のために使った。他の人が代わりに払ってくれたのなら、私は返すべきではないか?ー返すべきだ。Aさんは愚痴を言われることを恐れずに、私に借りを返すよう注意してくれて、私が前進する中でさらに身軽になって、これは私にとって非常に素晴らしいことではないか。Aさんに感謝すべきではないか。相手の修煉が足りていないのではなく、自分の修煉が足りていないのだ。このお金は同修に返すべきだと確信したと同時に、私はまだ足りないと思いました。あの時私の胸がドキッとしたのは、なぜか。理由があるはずです。自分のいかなる考え、いかなる念、思いつきが何を意味しているのか精査して、悪いものを逃すまいと思いました。

 私はなぜ不満だったのか、心に言い表せない何かがあったのかを掘り下げました。これまで、私は自分が金銭面で周囲よりも多くを持っていると思っていました(少なくとも私が知っている同修たちと比べて)。そのお金の一部は資料に使ったり、弁護士を必要とする同修に支援したりと、全て静かに行ってきました。これは当然のことで、同修が困っているときにはお互い助け合うべきだと信じていました。

 しかし、十数年前、私が苦境にあったとき、同修が2000元を出して弁護士を雇ってくれたことがありました。そして今、十数年後になって、同修がそのお金を返してほしいと頼んできたのです。この事実に私は戸惑い、寂しさを感じました。私が他の人を助けてきたのに、私が助けが必要になったときにはこうなるとは思いませんでした。私には利益を求める心がありますが、それが主な理由ではありません。また、面子のためにも心がありますが、それも主要な要因ではありません。同修に対する不満の心もありますが、彼らがお金を要求するべきではないと思います。単にお金を借りたのなら返すべさなければなりませんが、なぜこのお金をすんなりと返せないのでしょうか?

 私は答えを見つけました。私は大法の中でこの2000元以上のものを費やしてきたと感じています。私は功績を誇りに思っていました。この誇りを資本として利用し、少しの利益や報酬を得るためにそれを使用していました。これは私の私心であり、完全にさらけ出されました。

 こんなにも汚い心が隠れていたことを発見して、私はびっくりしました。正法はもう終わりまで来ていて、私はこんな汚い心を持って、天に帰れるのでしょうか。弁護士の件は、長い時間が経ってるのに、同修が持ち出したことに対して、少し疑問に思っていました。しかしこれは実際、師父の按排で、私にこの心を見つけさせてくださり、心性を高めると同時に、借りを返させてくださったのです。慈悲なる師父、そして私心がなく手伝ってくれた同修に感謝します。

 自分がどれだけ大法に尽くし、何回同修に尽くしてきたかという考えは、すべて人心で計っていることに気づきました。私は経済的には比較的裕福で、性格も明るく、喜んで人を助けますが、これは全て師父が与えてくださったものです。「天体、宇宙、生命、万事万物が宇宙大法によって切り開かれたため」(『轉法輪』「論語」)ましてやこんなちっぽけな私など、比べ物にもなりません。今回のこと(2000元を返すこと)を通じて、おそらく遥か昔に、「金銭を使って大法を実証する」と誓っているかもしれません。多く費やしたのではなく、むしろ少なすぎるかもしれません。これは誓約を果たしていないことになります。弟子は永遠に師父に借りだけを作っています。自分がどれだけ大法のために手柄を立てたかという考えは、どれほど危険なことでしょうか。

 謙虚さも私に欠けている一面です。高慢で身の程を知らず、何もかも自分の一存で決めるという党文化の考えは、「自我」を重要視し、全てが自分のためにあるとしています。この私心、自我こそが、生命が堕ちた原因であり、生命が再び神になるための強大な抵抗でもあり、私たちが成就できない本当の原因なのです。師父は私たちに「無私無我で、なおかつ他人を先に、自分をあとにするという正覚にまで修め遂げなければならないのです」(『精進要旨』「佛性に漏れなし」)と求めておられます。

 27年も修煉している古い学習者は、『轉法輪』を数千回読んだでしょう! しかし本当に内に向けて探し始めたのは最近です。もちろん簡単で明らかな間違いの場合は内に向けて探せますが、複雑で、自分とは関係なさそうなことには、また「懐中電灯」のように外側を照らすだけで内に向けて探すことができずになってしまいます。自分を照らし合わせるのではなく、他人ばかりを照らし合わせています。第一念は内に向けて探すよう習慣づける努力をする必要がまだまだあります。確固として、内に向けて探し、人心、人の念を修め、返本帰真するのです。

 私が読んだ海外の同修の文章では、修煉を始めた後、心の落ちつきを感じていると述べられていました。同修の心情を感じ取ることはできませんが、最近法の暗記を通して、心性が高まりました。特に徐々に内に向けて探す事を学び、執着心を取り除き、自分を浄化した後、私も心の落ち着き、穏やかさを感じました。長年、心にかけていた抑圧がかなり軽減され、世界が広くなったような感じがして、内心からの喜びを感じました。修煉もそれほど難しくなく、苦しくなくなり、とても不思議に素晴らしいと実感するようになりました。

 上記は個人的な経験であり、法に則っていないところがあれば、同修の皆さん、慈悲なるご指摘をお願いします。

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2024/6/13/478047.html)
 
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