文/ロシアの大法弟子
【明慧日本2024年9月4日】先日、天気が特に暑い日、家のエアコンが壊れました。エアコンは義母の部屋に設置されています。義母は毎日扇風機を使っていましたが、それでも暑くて耐えられないようでした。私は夫と相談し、義母に新しいエアコンを買ってあげようと提案しました。数万ルーブルで、そんなに高くありません。しかし、義母は同意せず、修理を頼むと言いました。最初に来た修理人は状況を確認し、修理費用を伝えました。義母はその修理代が高いと感じました。もう少しお金を足せば、新しいエアコンが買えるくらいでした。それで、義母はまた別の修理人を呼ぼうとして電話をかけました。
私は部屋の中で、義母が電話をしているのを聞くと、頭が膨れ上がる感じがしました。義母は耳があまり良くなく、声を絞り出していたので、その声を聞くだけでイライラしてしまい、義母に「新しいエアコンを買ったほうがいいでしょう。そんなに高くないですし、今こんなに暑いのに、何かあったら大変でしょう」と言いました。すると、義母は私が憎まれ口を叩いていると言いました。これを聞いた瞬間、もう話す気がなくなり、心の中で強い不満が湧き上がってきました。「私の言うことは正しい、私の言った言葉は道理に叶っている」と思えば思うほどイライラし、「せっかく親切に言ってるのに、どうして憎まれ口を叩いていると言われるのか」と感じました。
なぜこんなにもイライラしてしまうのか、自分自身をよく見つめ、心をかき乱すその原因を探し出そうとしました。最初に見つけたのは、自分が聞きたくないことを聞くのが苦手だということでしたが、それは表面的で浅いものであり、心の底まで触れたわけではありません。さらに深く探ってみると、他人に報復したいという心があることに気づきました。義母が私の言うことを聞かないと感じ、どうしても一矢報いたいと思ったのです。しかし、それはただ一つの念であり、実際に行動に移したわけではないため、心の底まで触れているわけではありませんでした。
さらに探し続けると、なぜ他人を怨むのか、なぜ一矢報いないと気が済まないのかという疑問が浮かびました。じっくり考えた結果、他人を怨むことや報復心を抱くことは、大法の要求する心性の基準に反していることに気づきました。では、なぜ私はそのことを分かっていながら、師父の教えに従って感謝の気持ちを持たずに、人を怨んでしまうのでしょうか。
その瞬間、自分の心の深い部分に隠れていた心、つまり大法に対する畏敬の念が足りないことに気づきました。これを発見した瞬間、目が覚めたように感じました。私はずっと自分が大法に深い敬意と畏敬の念を抱いており、師父の言葉に逆らったことはないと思っていましたが、このエアコン修理の件を通じて、自分の心の根底に実は大法への畏敬が不足していることが明らかになりました。法を学ぶ際、口では学んでいるものの、心に入っておらず、自分の全身全霊を持って学んでいなかったのです。
日常生活の中で、多くの細かいことに気がつかず、しばしば習慣的に過ごしてしまい、師父の言葉に従わず、根本的な観念が未だに変わっていないのです。これに気づいた瞬間、心がすっきりして、師父が法を伝えて以来、明慧ネットがさまざまな法を乱す現象に対して絶え間なく記事を掲載してきた理由も理解できました。おそらく、一部の同修の心の奥底に、大法に対する畏敬の念が不足しているため、強烈な人心や人の念を持って日常生活の中で修めるべき部分を扱っているのでしょう。
この心に気づいてから、義母が電話をかけているのを聞いても、全くイライラしなくなり、むしろ彼女を抱きしめたい気持ちになり、彼女がとても可愛く、まるで義母が私よりも小さく見えるような感覚を覚えました。
その日の夜、私ははっきりとした夢を見ました。夢の中で、私は引き続き内に向けて探し続け、まるで昼間の過程を再生するかのように、自分の中のあるものをはっきりと見つめることができました。
以前、私は怨みが有っても無くてもよい、見えもしないし触れもしない、いつでも散ってしまうようなもので、私に影響を与えないと思っていました。しかし、夢の中で内に向けて探すと、まるで物をもぎ取るかのように、一片ずつもぎ取るようにしていました。昼間、私は大法に対する畏敬の念が足りないことに気づきましたが、その心は非常に深く隠れており、長い時間をかけてようやく発見しました。そして、その心の隣には腐ったものがあり、とても汚れていました。誰もそれが何であるかを教えてくれませんでしたが、私は自然にそれが怨みであり、非常に腐敗した悪臭を放つ気であることを知りました。それは本当に実体のある物質でした。
怨みを生じる原因は生活の中にたくさんあります。普段から気をつけて取り除かないと、その腐った悪臭の気がずっと心の中に留まり続けます。夢の中でその腐敗したものを見つけたとき、私は師父の一句「腐敗物は滅され 光明が顕れる」(『洪吟』新生)と念じました。こう念じただけで、その腐った気は一気に散り散りになりました。ここで私は目が覚め、心身共に爽快な気分になり、この夜はとてもよく眠れました。
明慧ネットの記事を見ていると、「他人が私に良くしてくれない時こそ感謝をする」と題された文章を見つけました。文中の多くの言葉が私の心に響き、共感しました。ある同修は「彼女が何か私の悪口を言っても、あてつけに罵っても、それが聞こえなかったように気にしなくなりました。」と述べています。私も同じような経験をしています。自分が逆らう心を持たず、本当に穏やかな気持ちでいると、家族が怒っているのを見ても、家族が言う言葉がどれだけ厳しいものであっても、まるで蜂がブンブン飛んでいるように聞こえ、それが心の中に入ってこないのです。まるで何かがその騒音を遮断してくれているような感じです。確かにそうなのです。
多くの場合、苛立ちや心の不満が現れたとき、それは小さなことのように見えますが、実際には心が動いているのです。その背後にある根本的な原因を追求することで、必ず何かが見つかるはずです。「ああ、私は執着心を持っているから、嫌なことを聞くことができない」と簡単に言うのは、まるで公式を当てはめるようで、それで問題が解決したと思い込んでしまうことがありますが、そうではありません。執着の根源を掘り下げて探し出す必要があります。それはまるで、細い蔓をたどっていくと、最終的に大きなものにたどり着くかのようです。内に向けて探して自分を新たに見つめ直すことは、逆にとても良い改善の機会となります。
(編集担当者:文謙)