文/中国の大法弟子
【明慧日本2024年11月7日】インターネットが普及し始め、スマートフォンがまだ普及していなかった頃のある日、ウェブサイトを開くと、偶然にもある記事が目に入りました。内容はあまり覚えていませんが、画像が鮮明に記憶に残っています。コンピュータの画面から悪霊(あくりょう)が這い出し、その画面の前にいる人に爪を伸ばして誘惑しましたが、その人は全く気づかず、楽しそうにウェブページを閲覧している画像でした。その時、私はネットを正しく使わなければ、それは人を害する魔物だと思いました。だから、これまでの数年間、私は非常に良い状態を保ち、常人のウェブサイトは一切見ませんでした。ここ数年、世界中で流行している短い動画も見ていませんでした。周りの友人たちは私のことを不思議に思っていました。今、若者の中でスマートフォンで遊ばない人はいない中で、私は自分の原則を貫き、流行が必ずしも良いものであるとは限らないと考えています。
しかし、昨年「胡鑫宇事件」が発生し、それが臓器摘出に関わっていることから、真相を伝えるために役立つと思い、少し調べ始めたのですが、その後、止まらなくなりました。毎日、該当事件に対するセルフメディアの解説を見ていて、本当か嘘かに関係なく、すべてを見ていました。新唐人テレビの専門家の分析も見て、世界中の人々と一緒にその子供を探していました。まるで自分が渦の中に吸い込まれ、抜け出せなくなったかのようでした。それから、あらゆる動画を見始めました。華やかなネット世界を開くと、まるで長い間封じ込められていたパンドラの箱(ギリシャ神話では、パンドラの箱は災難と希望を象徴し、好奇心からそれを開けると、貪欲、誹謗、虚無、嫉妬、苦痛などが世に放たれるが、誤りに気づいて閉じたとき、箱には希望だけが残ったとされています。この言葉は、災難の根源や一連の問題を引き起こすきっかけを比喩的に表現するために使われます)が開かれたように感じました。
複雑で華やかで贅沢な現代の生活が、スマートフォンを通じて私の目に映り込みました。外の世界が本当に素晴らしく思われ、他人の幸せそうな生活を見ると、羨ましさと嫉妬心が入り混じった感情が湧き上がり、それまで穏やかだった心が急に波立ちました。動画に映るさまざまな誘惑、欲望、策略が私に一気に押し寄せてきました。これらを見てはいけないことは分かっているのですが、どうしても止められません。トイレに行く時でさえ見てしまいました。毎晩、夜中の2、3時まで見ても、眠気が全くありません。ようやく無理やり眠っても、翌朝は頭がぼんやりしています。それでも、再び短い動画を開けば、まるで麻薬を一口吸ったかのようにすぐに元気になります。このままでは、精神的にも体力的にも消耗し続ける一方です。現代人がソファに横たわってスマートフォンをいじる姿は、清の時代の人々が寝台でアヘンを吸う姿と何も変わりません。清の時代には林則徐が虎門でアヘンを燃やしましたが、あのアヘンは見えるものでした。しかし、現代のものは目には見えないアヘンであり、これこそがさらに恐ろしいのです。最近では、心臓や脳血管の病気による若者の突然死が非常に多いですが、これには新型コロナウイルスのワクチン接種の影響だけではなく、スマートフォンを夜通し使い続けるような不健康な生活習慣も大きく関係していると思います。要するに、宇宙人の科学技術は人間を破滅させようとしているのに、人間はそれに気づかず、それを楽しんでいるのです。
優雅な音楽は人を心地よくさせ、さらに病気を治すことさえありますが、低俗で耳に耐えないような音楽を長期間聴き続けると、体の機能は悪い方向へと進むことが、科学技術界でも証明されています。今の中国の短い動画の多くは、まさにそういった音楽です。人々に善を教える動画もありますが、玉石混交であり、誰がその区別をつけられるでしょうか? 一部のコンテンツには、人間の限られた理解や間違った解釈が含まれ、また一部には歪曲された歴史や意図的に植え付けられた憎しみの教育も含まれています。それを見た人々は、それを真理として信じてしまいます。さらに、今の中国の小学生たちが口にする言葉は、すべてネットスラングに満ちていますが、これらの歪んだ言葉は、神が伝えた優雅で深遠な伝統文化とはかけ離れています。このまま発展していくと、人々は一体どうなってしまうのかと考えるだけでも恐ろしいです。
スマートフォンが止められない理由は、運営会社の背後にあるビッグデータが、動画にどれくらい長く滞在したかを分析し、その好みに基づいて関連するトピックを絶えず送ってくることにあります。常に興奮状態にさせ、1つの動画を見終わると次が見たくなり、興味を引き続けることで、ずっとその掌中に置かれるのです。少しずつエンターテイメント、旅行、グルメ、心の物語、ポルノ、オカルト、予言、宗教など、あらゆるものが次々と送られてきて、それを見続けることで脳に次々と情報が注ぎ込まれていきます。普通の人はその問題に気づくことはありませんが、修煉者は感じ取れるはずです。それはまさに、捨て去るべき執着心なのです。
師父は、すでに私たちに警告されています。「人類の発展はとても恐ろしく、将来はコンピューターが人間を指揮することになるのです。既にこの傾向に向かっています。人間はコンピューターや機械の奴隷になり、最後には宇宙人にとって代わられます。コンピューターの発展は、なぜこんなに速いのでしょうか? 人間の頭脳は突然そんなに活発になるのでしょうか? 全ては宇宙人が人間の思想をコントロールして作ったのです。コンピューターを操作できる人は、一人一人が宇宙人によって番号を振られています。本当にそうです。私たち学習者は、私が既にきれいにしてあげましたので、コンピューターを使っても妨害されることはありません」。(『ヨーロッパ法会での説法』)
師父のお言葉は現実になりつつあります。スマートフォンは小型のコンピューターであり、表面的には人がスマートフォンで遊んでいるように見えますが、実際にはスマートフォンが人を操っているのです。
ある日、私はこんな夢を見ました。外から帰ってくると、一匹の凶暴な黒い熊が私を追いかけてきました。私は急いで庭の大門のかんぬきをかけ、家の中に駆け込んで小さな扉も閉めました。これで大丈夫だろうと思っていたのですが、窓から黒い熊が木の棒を大門の隙間に差し込み、かんぬきをこじ開けたのを見ました。熊は大門の開け方を知っていたのです。今や残っているのは小さな扉だけで、私は恐ろしくて焦りながら目が覚めました。目が覚めた後もその恐怖が残っていて、すぐに思い浮かんだのは、あの黒い熊はスマートフォンの誘惑そのものではないかということでした。強力な勢いで押し寄せ、黒い熊は私がかけたかんぬきの位置を見抜いたように、スマートフォンは私の弱点を知り、私の好みに基づいて誘惑してきて、最終的に私を破滅に導こうとしているのです。私は師父に向かって手を合わせ、懺悔しました。「弟子は迷ってしまいました。使命を忘れかけ、道を誤りました。師父、この夢を通じて弟子を目覚めさせていただき、深く陥らないようにしてくださって、ありがとうございます」
以前は、道を修めていましたが、今は大法を修めている同修から、古代には修煉者が外界からの影響を避けるために、自分の目を失明させたり、耳を失聴させたりしたという話を聞いたことがあります。この話を聞いたとき、非常に心に感じることがありました。その方法が正しいのか間違っているのか、良いか悪いかはさておき、古代の人々が妨害を排除するためにどれほど強い決意と覚悟を持っていたかがわかります。私たちは大法を修めているので、そのような極端な方法は取らず、常人社会の中で修煉する必要がありますが、避けられないことも多々あります。それでも、もし私たちが誘惑に直面しても心が乱れなければ、その修煉はより堅実なものとなるでしょう。周囲の環境が静かになるのではなく、私たちの心が静かになれば、何も私たちを妨害することはできなくなります。孫悟空が三蔵法師と共に経を取りに行く際、最初に遭遇した難題は「心猿を正し、六賊を消す」ことでした。六賊とは、眼看喜、耳聴怒、鼻嗅愛、舌嘗思、意見欲、身本憂を指します。この六欲、つまり六根を断つことができたからこそ、孫悟空は心身が清められ、心を乱すことなく三蔵法師と共に経を求めることができました。諸葛亮が息子に宛てた手紙には「君子の行いは、心を静かにして自らを磨き、質素にして徳を養う。淡泊でなければ志を明らかにできず、静かでなければ遠大な目標に到達することはできない。学問は静かに行うべきものであり、才能は学問によって伸ばすべきものである。学ばなければ才能を広げることはできず、志がなければ学問を成し遂げることもできない」と書かれています。これにより、静の重要性が理解できます。心が静かであれば、身を修め人格を磨くことができ、学問も静かでなければ身につきません。佛家の修煉では、浄・静・境が重要とされています。考えが清らかにならなければならず、考えが清らかになれば、心が静まり、心が静まると知恵が現れ、境地が高まります。これこそ、修煉者が目指すべき境地ではないでしょうか? 私たち大法修煉者も、清浄無為を重んじ、心を静める必要があります。
修煉とは、絶えず自分の心身を浄化していく過程です。私たちが修めているのは高徳の大法であり、師父が高い次元へと私たちを導いてくださっているのに、私たちは目や耳を通じて、これらの低俗で価値のないものを身体に取り込んでしまっています。それを取り除くには時間と精力がかかります。私たちは人間の心を修めることだけでもすでに難しいというのに、さらに故なく困難を自分で増やすことになるのです。これでは、師父が大きな犠牲を払って得てくださった時間を浪費していることになりませんか?
古代の人々は、現代人のように娯楽や仕事をする必要がなく、日の出とともに働き、日没とともに休むという、シンプルで質素な生活を送っていました。そのため、心も比較的平静で、道と非常に近かったので修煉も比較的容易でした。しかし、その時代には大法がなく、道を求める手段がないことに苦しんでいました。今、私たちは性命双修の高徳大法を得ており、これほど幸運なことはありません。時間を無駄にせず、自分の不足を見つけ、しっかりと修煉に励むべきなのに、まだ常人の娯楽に執着しているのではないでしょうか。今の外部環境は多少緩やかになりましたが、妨害は至る所に存在します。気を緩めてはいけません。安逸な環境にあると、心地よい状態に陥りやすく、これもまた別の形の迫害ではないでしょうか? 昨年、ひとりの高齢の同修が亡くなりました。彼女は臨終の際「私はうまく修煉できなかった。漏れがあった。コロナ禍の後、ネット小説や中国のネットドラマに夢中になり、時には夜中の2、3時まで見てしまうこともあった」と言いました。実際、この同修は修煉環境が非常に良く、非常に理知的な方でした。三つのこともよくできており、時には神通力が現れることもありました。しかし、この誘惑に勝てず、その漏れを突かれてしまったのです。時間と機会は取り戻せません。失ってから後悔しないようにしましょう。スマートフォンを手放し、心を静め、しっかりと修煉に励みましょう。
最初はスマートフォンを手放すことに少し苦労するかもしれません。心の中でムズムズして、どうしてもスマートフォンを開きたくなる気持ちになります。しかし、自分がかつて誓いを立てたこと、使命があること、そして自分が宇宙の中で最も厳粛な修煉者であることを思い出すと、もう無駄なことにふけることはできないと感じるでしょう。師父はこうおっしゃいました。「それは正しい考えに導かれていないために、簡単にはやめられません。一人の修煉者として、あなたは今日から、それを執着心として捨ててみてください。やめられるかどうかを試してみてください」。(『轉法輪』)私たちは師父のそばにいなくても、師父は常に私たちの側におられます。そのため、この過程の中で私は何度も師父に加持をお願いし、弟子のこの依存心を取り除いてくださるようにとお願いしました。これは修煉者が持つべきものではないからです。その結果、驚くほど簡単にスマートフォンを手放すことができました。まるで私を引き寄せていた糸が切れたかのように。そして、スマートフォンに入っていたすべてのエンターテインメントアプリをアンインストールし、今ではまるでガラケーのように、電話の送受信だけに使うようになりました。私の心も、以前の平静さを取り戻しました。
(編集責任者:任嘉)