若者を操りアメリカで法律戦を仕掛ける中国共産党
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文/一言(米国)

 【明慧日本2024年12月15日】最近、中共は、飛天大学の元学生を操り、アメリカの神韻芸術団や飛天大学など8つの機関および個人に対して訴訟を起こさせている。これは明らかに、中共が「法律戦」を利用してアメリカの法輪功修煉者グループを攻撃しようとする試みであり、海外の法輪功学習者に対する迫害を拡大させる新たな政治運動を示している。中共は露骨な政治的操作や人権迫害を常用手段とし、アメリカにおいても形を変えただけの同様の迫害を行い、罪悪を輸出してアメリカの法治と自由に挑戦し、利用しようとしている。

 中国本土では、中共は信仰を犯罪とみなし、法輪功学習者が迫害加担者に対して提起した訴訟に対し、裁判官たちは「法輪功には法律を適用しない」と公然と叫んでいる。アメリカでは、マフィア的な中共がアメリカの法律を自らの武器として利用し、これは国際社会の法治と道徳的良知に対する大きな試練となっている。中国では、中共による法輪功への迫害が四半世紀にわたって続いている。中共は1998年と1999年に法輪功に対する迫害を公然と始めた。まず公安部が内部で定罪し、その後いわゆる証拠をでっち上げた。迫害の元凶・江沢民は、1999年10月にフランスの『フィガロ紙』の記者のインタビューを受けた際、最初に「法輪功は邪教だ」という「最高指示」を明らかにした後、中国全国人民代表大会がいわゆる法律を急遽公布した。しかし、その条文には「法輪功」という言葉すら言及されていない。なぜなら、彼らはこの「法律」が憲法を踏みにじるものであることを理解していたからである。

 中国では、法輪功学習者たちは、労働教養や労働改造による迫害を受け、洗脳班(中には「法制教育センター」などの名目がつけられた場所)や精神病院に閉じ込められ、天安門焼身自殺事件の捏造や「1400例」の罪名を着せられ、臓器の生きたままの摘出、ドアを叩く行動、公職の解雇、年金の差し止め、様々な拷問手段など、あらゆる形態の迫害を受けている。これらすべては、中共が違法で憲法に反して行った反神、反人類的な犯罪行為である。江沢民が1999年に「3カ月で法輪功を消滅させる」と叫んだその暴言は、すでに彼自身と共に無間地獄と無生之門へと落ちていった。

 現在、陳一新(訳註:中共国家安全部部長)らは個人的な目的のために、アメリカの民主制度の開放性や西洋自由国の法治の公平性と寛容性を利用して、北米でいわゆる「法輪功を打倒する工作室」を設立し、強化しようとし、神韻芸術団や法輪功に対して法律戦を仕掛け、管轄権を無視した越境的な迫害を行おうとしている。世界を支配しようとする中共の狂気と傲慢を示している。しかし、2024年にトランプが大統領選で勝利した時点から、アメリカは再びその立場を取り戻し、再び偉大な国へと回帰する運動が始まった。アメリカの憲法は、国の父たちの卓越した治国理念と独自の制度設計が凝縮されており、そこから発展した憲政制度は、アメリカの市民道徳と名誉感を基盤に、民主主義、自由、人権、信仰といった普遍的価値を追求する根本的な保障となっている。それこそが、アメリカ合衆国が神に定められた世界一の強国であるという深い制度的遺伝子を作り上げている。

 不正義な弁護士はどの国にも存在し、アメリカも例外ではない。彼らは金のために何でもやり、弁解し、時間稼ぎをし、法律の隙間をつく。しかし、問題が多くあるにしても、アメリカは依然として世界で真の法治国家であり、アメリカや人類の未来に関わる重大な問題においては、神はそのような敗徳の小人たちが最終的に勝つことを許さないだろう。私たちは固唾を飲んで見守ろう。これもまた、すべての傍観者にとって信念と善悪観を試される試練である。

 訴訟について言えば、実際アメリカでは訴訟が一般的で、ちょっとした争いごともすぐに法律に訴える人が非常に多い。弁護士への依頼は人々が紛争を解決するための一般的な方法の一つとなっている。現状を見れば、第一に、アメリカの法律は依然としてかなりの程度で正義を守る役割を果たしていることがわかる。第二に、普通のアメリカ人は法治観念が強く、法律と法治に対して相当の信頼を寄せている。同時に、アメリカで訴訟が一般的な背景には、第一に、人間の道徳の低下とともに、訴訟を利用して他人を騙したり、問題を起こしたりする人が増えてきていることがある。法律は人に対する外的な強制力であり、法律条文が膨大であるため、必然的に抜け穴が増え、事を起こしたり、罪から逃れることが可能になっている。第二に、訴訟という業界には多くの利益追求者がいて、彼らにとって訴訟が多く、審理が長く続くほどお金を稼げるため、原告弁護士としても被告弁護士としてもその活動を楽しんでいる。

 ちなみに、多くの中国人は宋朝の李昌齢の『太上感応篇』を読んだことがあるかもしれない。『太上感応篇』の冒頭には次のように書かれている。太上老君が次のように言った。「人間の福禍には特定の道があるわけではなく、すべては自分自身で招いたものである。善行には善の報いが、悪行には悪の報いがある。それは人の影が体についているようなものである。したがって、天地には過ちを裁く神々がいて、犯罪の軽重に応じて寿命を削る(人が百日を生きることを一算、十二年を一紀とする)。年齢が削られるだけでなく、貧困や損失といった罰が加わり、困難な出来事が次々に起こる。そして、周りの人々はその者を嫌い、刑罰や災難が続く。幸運な出来事はその者には訪れず、凶運や悪運によって災いが降りかかる。そして、寿命が完全に削られたとき、それがその者の死期である」

 『太上感応篇』に記されている「闘合争訟」という言葉の意味は、他人を争いごとに煽動し、他人の訴訟や裁判を促進することである。これは自らが招いた悪報の一つの悪行であり、悪行が業力を生み出し、業力が悪報の根拠となるのである。神の存在は無神論者が決めることではなく、報いの存在も同様である。

 陳一新たちは悪報を求めているようだが、彼らと共に犠牲となる人々もまた、無意識のうちに自分自身で選んだ道であり、その悪行に対して責任を負わなければならないのである。

 
翻訳原文(中国語):https://www.minghui.org/mh/articles/2024/12/14/486087.html
 
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