文/中国の大法弟子
【明慧日本2025年3月19日】最近の法を暗唱した際のいくつかの体験を記し、同修と交流したいと思います。法に符合していない点がありましたら、慈悲なるご指摘をお願いいたします。
継続的に法を暗唱していると、一層ごとに法理が明かされ、心性が継続して向上し、法に対する悟りが深まってきました。
私は、師父が説いてくださった、分子、原子、陽子についての法の理解が難しいと感じていました。ところがこの度、「物質は微粒子の状態において、分子、原子、陽子などがあり、とことんまで調べていって、もし、各層で一つ一つの点ではなく、その層の面を見ることができれば、例えば分子の層の面、原子の層の面、陽子の層の面、原子核の層の面を見ることができれば、違った空間の存在のあり方が見えるようになります」(『転法輪』)というところを暗唱すると、師父の説かれた法は、実はこんなにも明白で分かり易かったのか、と感じました。
私はその時、師父のおっしゃるこの段落の法に導かれ、まるで時空を超えて旅をし、異なる次元の在り方を見たような気がしました。天体に関する私の認識が広がりました。天体が非常に広大であるのに対して、人の生活空間は非常に狭いということがわかりました。この狭い空間で、人は細菌よりも微小な存在なのです。
師父のおっしゃる博大な法理は私に、人として、天と地と神を敬い、謙虚で礼儀正しくあるべきだと気づかせてくださいました。私は長年、党文化の中で教育を受けてきたため、傲慢になり、他人を見下し、さまざまな観念を持つに至っていたのでした。
「天体は、神々や王、主もその外を知らないほど巨大であり、生命は数え切れないほど多いのです」(『人類はなぜ迷いの社会なのか』)という法を暗唱した時には、私の大脳はたちまちのうちに開かれ、自分が高い次元からこの世にやって来た神で、法を得て救い済度されるために、三界内の人間世界にやって来て、苦難に耐え、業を滅し、自分の天国世界に戻る目的があることを知りました。
これらの全てを知った後、私は問題に直面した時に、自分のなかの(神としての側面ではなく)人間としての側面で問題を認識するというこれまでの認識上の限界を超えて、人心、人の観念、人の情を放下し、人間としての自分から抜け出し、高い次元に立って問題を見るようになりました。
今更ながら、自分が人間の世界でどれほど深く迷っていたのかに気づかされました。ちっぽけな利益のために争い、苦しく、疲れきって生きていて、またこれを幸せだとさえ思っていたのです。これまで私は困難にぶつかった時、完全に人心で物事を測っていたのです。
魔はこのような人心を利用して私たちに困難を創り出し、私たちを人間としての境地から抜け出させないように引き留めます。しかし私たちが法を多く学び、次元を向上させれば、向上した私たちに魔の手は届かなくなり、人心と執着を容易に取り除くことができ、こうして、私たちは困難から抜け出すことになるのです。
ある夜、酔って帰宅した主人が、私の料理に文句をつけました。私が何も言わずにいると、夫はとうとう罵り始め、「あなたは車検代を払っていない(その日の午後に夫は車検代を払っていたのです)。もうすぐ車の保険料の支払いもやってくる。これもまた私が払わなければいけないんだ」と言いました。私は「今後は私が払うわよ。それに、普段のガソリン代は私が払っているわよね?」と言いました。
それを聞いた夫は、さらに激しく罵り続け、テーブルを叩いて、私の実家の家族まで罵りました。わざと聞き苦しい言葉を選んで大きな声で怒鳴り、上下の階の住人にまで聞こえるほどです。
私は心底悔しく思い、立ち上がって家から出ていこうとしたのですが、すぐに、「私は修煉者だ。家を出るというのは、人間の方法で摩擦を避けようとしているのではないか? きっと魔が主人を利用し、この摩擦を作っているのだ。これは私の良くない人心を取り除く機会なのではないのか? 私は魔が作ったこの状況に騙されるべきではない」と気づきました。
私は心から、「師父、私はこれらの良くない人心は要りません」という一念を発しました。私はバッグからお金を出して夫に渡しながら、「怒らないで。お金はしょせん体以外の物よ。怒る価値はありません。あなたは今日、車検に260元使ったのでしょう。だから、300元をあなたに渡します。それから、保険料の分として1000元をあなたに渡すわね」と言いました。
(訳註:「体以外の物」は中国の成句で、財産・功名を指し、体ほど問題にならない、体ほど大切ではない、の意)
主人はすぐに荒い鼻息を収め、「いいよ、要らないよ」と言いました。私は、名、利、情などの人心を放下すれば、「他人から殴られても殴り返さず、罵られてもやり返さず」(『転法輪』)を、自然に実践できるということに驚きました。
翌日の朝に正念を発する時、頭に「私は嬰児のように純粋であるべきだ」という一念が浮かびました。まるで私の左側に比類のない純粋な嬰児が本当にいるように感じました。私が人心、人の観念、人情を放下し、人間としての自分から抜け出す時、まるで生まれたばかりの嬰児のように純粋な境地にいることを悟りました。