同修に対する「崇拝」を戒めよう
■ 印刷版
 

文/中国の大法弟子

  【明慧日本2025年3月26日】私は偶然に、天目が開いている同修に出会いました。その同修は救急治療を受けてから亡くなりました。私の修煉過程を振り返りながら、同修の参考になればと思い、この文章を書きました。

 私が彼に初めて接した時、彼はすでに救急室で救命治療を受けていました。私たちはお互いに知らなかったのですが、同じ法門を修める修煉者として、助ける責任があると感じました。私は自分の力の範囲内でできるだけ正念を発し、師父の啓示の下で、別の空間の一部を視ることができました。この間、邪悪は、彼と旧勢力との契約や彼の執着について言及しましたが、私はそれらを否定し、それを迫害の口実にする邪悪な要素を取り除いていました。

 私が自分の能力の範囲内で邪悪な要素を取り除いたとき、彼の神体はまだ非常に小さかったのです。私は彼とコンタクトし、師父が按排された修煉の道を歩み、旧勢力が按排した道を歩まないように伝えると、彼は瞬時に理解し、神体はすぐに巨大になりました。

 この時、私は彼に自分の体(肉体)に戻るように勧めましたが、彼の体が見えませんでした。彼の神体と肉身の間には、まるで大きな霧がかかっているようでした。私はその霧を必死に払拭しようとした後、ようやく彼は自分の体のそばに戻ることに同意しました。

 この時、人間世界では、彼はすでにICUで救命処置を受けており、医師は毎日家族に危篤の通知を出しているにもかかわらず、彼の生命の兆しはとても強靭でした。この現象を見て、家族や同修たちは自信を持ち、毎日誰かが彼に正念を発していました。

 私も毎日病院に行って正念を発していましたが、邪悪を多く取り除いた後でも、彼はまだ目を覚ましませんでした。私は原因を必死に探しましたが、一つの問題に気付きました。それは、その霧がどうしても取り除けないように見えることでした。

 同修との交流の中で、私はこの霧の原因が同修同士の崇拝によって生じ、そして、この霧の危害は、私たちの発する正念の力を弱め、さらには邪悪を取り除くための発正念を阻止していると感じました。

 この天目を開いて修煉している同修は、自分の効能を活かして多くの同修の精進を助け、心性とレベルを向上させたため、同修たちからとても敬愛されています。今回は彼が同修を助けているときに突然脳出血を起こし、脳内に大きな血腫ができて入院することになりました。この同修はとても無私で、行動に欠点はあるものの、心が無私であることはとても貴重です。そのため、私は彼の欠点がこんなにも大きな魔難を引き起こすとは思いませんし、この魔難が現れ、また良い方向に向かっていないのは、きっと他に原因があると確信していました。

 この時、私は1人の同修と妨害に遭い、邪悪な要素が夢の中で私に『薬を間違えて飲んだ』と罵り、私にこのことに関わらないようにと言いましたが、私はその警告を認めませんでした。翌日、私はそのことを同修に話しました。3日目、突然全身が痛み、頭がひどく痛み、咳をすると止まらなくなりました。もう1人の同修も私ほどではありませんが、体調が悪くなり、私たちは毎日正念を発することができなくなりました。

 私が回復してから再び病院に行った時、同修の状態は非常に悪化しており、数日後には亡くなりました。そして、私は彼の周りに広がる霧の中に、邪悪な生命がどんどん大きくなっていくのを見ました。とても残念です! 残念なのは、彼が自分の業力によってではなく、同修たちが形成した崇拝の霧によって邪悪に迫害され、その肉体を奪われたことです。

 私が邪悪の妨害を受ける前に、他の同修たちと『崇拝』という問題について話し合いました。彼らもその要素があると感じていたので、いくつかの方法を考え、解決しようとしました。目標を達成できるように霧を払うために努力したのです。しかし、関係する人が多く、またこの問題は一朝一夕で解決できるものではないため、目標を達成するのはとても難しかったのです。

 私たちの周りにも似たような現象があります。ある同修は長期間、崇拝されることや依存されることがあり、彼自身が魔難に直面したとき、他の同修の意見を聞き入れることが非常に難しく、また自分の執着を見つけることができず、その結果、長期間にわたり魔難の中に置かれています。ある同修はこのような魔難が5、6年も続き、魔難から抜け出すことができませんでした。私が正念を発して感じたのは、もし邪悪な迫害であれば、正念が強ければ邪悪は容易に取り除かれます。しかし、もし大法弟子たちが形成した不正なもの、例えば依存や崇拝によって形成した物質がその同修の周囲に包み込まれている場合、他の大法弟子たちはそれを取り除くことができず、邪悪に迫害する口実と生存空間を与えてしまうことになります。これにより、同修は長期間魔難に陥り、最終的に肉身を失うことになります。師父はこのことについて多くの法を説かれていますが、私たちはそれを十分に重視していませんでした。

 私の天目も時々何かが見えることがありますので、同修の中には私に対して少し思うところがある人もいます。以前、ある同修がわざわざ私の家に来て、自分の修煉の状況について尋ねてきました。その時、私はなぜか恐怖感を覚えました。あまりにも怖い、私は崇拝の対象になってしまう! これに対処する方法がなく、この時、たとえ私が何かが見えたとしても、私はもうそれを話さないようにしようと思いました。なぜなら、それが同修の執着を引き起こし、話すことで人を害することになってしまうからです。

 時々、天目を開いて修煉している同修は、自分が見たものを通じて他の同修に正念を増す手助けをすることがありますが、長く続けると同修の崇拝を引き起こしてしまい、これは自他ともに害となります。ですから、私は自分が天目を開いて修煉していることを決して認めません。実際、私も何でも見えるわけではありません。もし師父が啓示を与えてくださらなければ、私も何も見えないのです。

 この亡くなった同修は、天目を開いて修煉している他の大法弟子にとって、大いに教訓となるべきです。常に自分の言動が他の同修に与える影響に警戒しなければなりません。もし崇拝や依存を引き起こすことがあれば、それは他の人の向上を妨げ、また自分自身の魔難を増大させることになります。徹底的に警戒をし、警戒していきましょう!

 同修の死を通して、私は改めて思いました。私たちは本当に同修を大切にしなければなりません! 特に、少し「特別な状況」にある同修を大切にすることは、自分自身を大切にすることでもあります。師父は常に「心性の高さは功の高さ」(『轉法輪』)と教えてくださっています。では、なぜ私たちはそれを基準にしないのでしょうか? なぜ、いわゆる功能のある同修を珍しがるのでしょうか? もし、このような珍しがる崇拝の心理が原因で、同修が大きな魔難に陥ることになれば、それは私たち自身が罪を犯していることになりませんか? もし、功能を持つ同修が、他の同修の影響で魔難に見舞われるのであれば、誰も自分に効能があることを言わなくなってしまいます。このような隔たりは、結果的に邪悪な迫害を生むことにもなり、天目を開いて修煉している同修と、天目を閉じて修煉している同修の双方にとって、大きな損失になってしまいます。

 修煉者がこの世を去る原因はさまざまですが、ここではその一因について分析したに過ぎず、必ずしも正確ではないかもしれません。しかし、同修が命をもって得た教訓を無駄にしてはなりません。天目を開いて修煉している大法弟子も、天目を閉じて修煉している大法弟子も、何かしらの参考や啓発になれば幸いです。

 以上はあくまでも個人的な認識であり、参考までに。

 
翻訳原文(中国語):https://www.minghui.org/mh/articles/2025/3/12/488069.html
 
関連文章