修煉の観点から物事を見る
■ 印刷版
 

文/西洋の大法弟子  

 【明慧日本2025年3月29日】ここ数カ月、私は修煉における問題を経験しました。今になってそれが、師父が最近発表された『肝心な時に人の心を見極めている』という新しい経文の中に説かれた「関」であったことが分かりました。(訳注:「特にこの状況下で皆心を同じ方向に向かわせ、法を最優先にし、修煉者の基準で自らを律し、人を救うためのプロジェクトが損害を受けず難関を乗り越えるようにすることこそ修煉者としてのあるべき姿です。これは威徳なのです。なぜならば、これは皆さんが必ず乗り越えなければならない関だからです」『肝心な時に人の心を見極めている』)

 私はこの数週間、自分の体験を数人の学習者と共有してきました。しかし、より多くの人々が恩恵を受けられるように、すぐに明慧ネットに記事を書くべきだったと今は思います。

 約1年前、私は協調と起業の経験を生かして、大法プロジェクトに新しい部門を設立するのを手伝うよう依頼されました。私は別の都市に住んでいるため、あちこちと行き来し、プロジェクトの協調人と定期的に会議をしなければなりませんでした。しかし、何カ月もほとんど進展がありませんでした。

 私は放っておいて辞めようかと考えていたところ、協調人から緊急の電話がかかってきました。私はこの部署を設立することの重要性を理解していたのです。そこで私は、数カ月間そこで働いてベストを尽くすことを決意しました。それでも、同修は私のアドバイスに耳を傾けず、私は権限もなく責任を与えられたように感じました。事態は悪化しました。

 私はとてもイライラしていました。私は「何をすべきか伝えたのに、あなたはその逆のことをした。そして今、こんなことが起きた!」とか「私の時間を無駄にした!」とか「またしても、やり方を知らない中国人の同修は、やり方を知っている人を実際にリーダーにすることは決してしない」などと考えていました。私は、自分の責任感とやり方は正しかったのですが、修煉者として、これらは間違った考えだと気づきました。そこで私は自分の内面を見つめることにしました。

 私は古い修煉者であり、このような状況は初めてのことではないので、特定のプロジェクトで挫折したときは、今回はもっとうまくやらなければならないと決心し、状況を修煉と法を正すことの観点からのみ見ることにしました。

 師父は『肝心な時に人の心を見極めている』の中でこう説かれました。

 「末後、法を正し人を救うというこの重要な歴史の時期において、現れたすべての問題に対していっそう、修煉者の自覚をもって対処すべきです」

 「大法がこの世で人を救っているのです! 人の心を見極めています! 重要な立場にいるかどうかを見ているのではありません」

 そこで私は自分自身に尋ねました。「なぜ私はこのプロジェクトに参加しているのだろう?」

 そのとき、私は、これまでの私の立場である舞台裏の「将軍」ではなく、最前線の「兵士」としてこのプロジェクトに参加すべきだと気づきました。良い仕事をするためには、私は多くの新しいスキルを学び、他の人にとって重要なものを改善する必要があります。それに、私は「最前線」にいるので、多くの人に届く可能性があります。これまで私は多くのことを学んでおり、この役割(兵士)を担うことへの真の熱意が高まっています。

 嬉しいことに、自分の心は弱くなく、また「初心者」になってみんなからフィードバックを受けることも気にしませんでした。実際、世界のどこかで修煉者としてこの種の仕事をしたいと思っていたら、このプロジェクトと場所は最高の場所です。経験豊富な修煉者たちに囲まれていて、彼らは私を励まし、可能性を見出し、1分間の会話でヒントをくれます、自分では2週間かかるかもしれません。さらに、ここは本当に良い修煉環境です。

 修煉者として行動し、自分の内面を見つめ、考え方を変えてみると、フラストレーションは喜びに変わり、時間を無駄にすることは、より多くの衆生を救うために一生懸命働くことに変わりました。師父、ありがとうございます!

 もしそのプロジェクトが私に、経験のない最前線の仕事に参加するよう提案してきたら、それは私には関係ないかもしれないと考えて断ったかもしれないと気づきました。この特定のプロジェクトで、この特定の時期に管理職を務めることは、「初心者」である私にとって元々決められたことではありませんでした。ですから、私がこれに気づくためには、いくつかの出来事が必要でした。私は、意図した役割に切り替えて、チャンスをつかまなければなりませんでした。物事を表面的に見て、気分を害し、憤慨し、無知になり、チャンスを無駄にすることだったでしょう。

 師父、忍耐してくださりありがとうございます。私は師父が衆生を救うのをもっと効果的に手伝いたいと願っています。

 【修煉者同士の理性的な交流は、一般的に、その修煉者がその時点で修煉を通して得た認識に基づいたものであり、善意を持って交流し、互いに向上することを目指すものです。】

 
翻訳原文(中国語):https://www.minghui.org/mh/articles/2025/2/8/490464.html