文/中国の大法弟子
【明慧日本2025年4月2日】長年にわたり、修煉の中で私たちは根本的な執着とは何か、それぞれの大法弟子が根本的な執着を生み出す原因は何かについて議論してきました。関連する交流文章を閲覧する際、傍観者の立場なので、他人の問題の所在を比較的見出しやすいと感じます。しかし、自分自身と照らし合わせると、往々にして自分の根本的な執着を発見するのは容易ではなく、むしろ非常に困難です。
長い間熟考し、観察してきた結果、この問題は私に限ったことではなく、ある程度の普遍性を持っているかもしれないと気づいたので、同修と交流するためにこれを書き記します。
大法が良いと思って、修煉を始めた?
家族の同修を含め、私が知る多くの大法弟子は、体調不良を抱え、病気を治し健康になるために大法修煉を始めました。私が大法に出会ったのはまだ10代で、病気もあまりありませんでした。そして、当時根本的な執着の問題について同修と交流した際、自分にはこの問題がないと常に感じていました。ただ単に大法が「良い」と思って修煉を始めました。
なぜ「良い」という字に引用符をつけたのでしょうか? もしそれほど純粋に大法が良いと思っていたのなら、それは素晴らしいことです。しかし後になって気づいたのは、私はこの「良い」を利用して、自分の根本的な執着を巧妙に隠そうとしていたのです! 人間から修煉に入る際、必然的にさまざまな人心を持ち込みます。もし「神の念」で入ってくるのなら、何を修煉する必要があるのでしょうか? ですから、誰もが必ず自分の根本的な執着を持っているはずです!
20年以上の修煉が経過し、最近になってようやく大法修煉の厳粛さを少し理解できるようになりました。当時の自分の状態が「修煉しているふりをしていて、実際には修煉していない」、「一つの手で常人を掴み、もう一つの手で修煉を掴む」というものだったことに気づきました。根本的な執着を取り除かない危険な状態でぼんやりと過ごしていました。そして、魔難が起こって長期にわたる苦痛の中で、はじめて、ゆっくりとこのことに気づいたのです。
十代の頃に大法(法輪功)に出会ったものの、本格的な修煉はしていませんでした。ただ、無意識のうちに法輪功を「避難港」の一つとして捉えていましたが、その位置づけは低く、後回しにしていました。まるでお寺で仏に平安を祈るような感覚でした。しかし、その頃、私の心にはすでに修煉の種が植えられており、少なくとも修煉は前向きなものだと感じていました。その後、俗世の中で生老病死を多く目にするようになり、特に外祖父や外祖母が90歳前後で亡くなった時のことが印象に残っています。彼らは長生き、恵まれていると考えられる年齢でしたが、生前に病に苦しみ、病魔によってすっかり人間の面影を失っていく様子を目の当たりにし、強い恐れを感じました。私はまだ30代前半でしたが、本能的に病気になりたくない、死にたくないという思いが募っていきました。そして、その思いがどんどん強くなるにつれ、私は修煉をしたいと思うようになりました。なぜなら、私は病気や死を避けたかったし、自分の生命に保険をかけたかったのです。できれば、修煉によって果位(悟りの境地)を得ることができればとも考えていました。最低限、老いること、病に苦しむこと、死ぬことを永遠に避けたいと思っていました。今振り返ると、これこそが当時の私の根本的な執着だったのだと気づきます。
しかし、世間での「素晴らしい」生活の日々を、どうして簡単に手放せるのでしょうか? 私自身がちょうど人生の真っ盛りな時期にいるのです。修煉を始めれば、常人としての多くのことが自由にできなくなることは分かっていました。それに加えて、中国本土での迫害という特殊な環境の中で、自分はまだ若く、大病を患うこともなく、老いや死もまだ遠いと考えていました。そういった理由をいろいろつけて、修煉を始める日程を何度も先延ばしにしていました。しかし、2014年に大法を迫害していた主要な人物である周永康が失脚した後、無意識のうちに「修煉する機会がもうすぐなくなるのではないか」と思い、急いで入らなければならないと考え、そのような打算的な気持ちで「修煉」を始めました。
しかし、しばらくしても迫害が終わる気配がないと感じ、すぐに気が緩んでしまいました。堅実で着実な修煉ができていなかったため、大法について以前理解できなかった部分はその後も理解できていません。人間社会で手放せないものは依然として重く見ています。同時に、新たな執着も生まれました。その時、「法輪功が宇宙大法と言っているので、もし言っていることが本当だったら、こんなに偉大な法の中に紛れ込めば、たとえ自分がどれほどダメでも、命くらいは守れるのではないか?」と考えました。その考えは実際に、人間の最も狡猾な投機的心理であり、最小限の努力で最大限の報酬を得たいというものでした。
その結果、自分の行動はすべて損得勘定で動いているようでした。真相を伝える際にも、いつの間にか利益交換をしているような感覚になりました。「自分が形式上少し真相を伝えたからには、大法の修煉者として天からの幸福の報いを受けるべきだ」「病気にもならず、死ぬこともない」と思い込んでいました。そして将来的には神になる可能性もあるだろうと考え、「大きな法だから適当に修煉しても三界から抜け出せるかもしれない」とさえ思っていたのです……
根本的な執着を取り除かないことによる危害
実際、この問題については、多くの同修がすでにたくさん話しています。長期間にわたって、法に対する理解ができず、自分が何のために修煉しているのかを認識できず、真心をもって修煉に取り組めないと、時間が経つにつれて、あなたの根本的な執着が現実で完全に証明されず、 或いはあなたが執着している程度に達成できなかった場合、あなたは師や法に対する信じる心が揺らぎ、さらには修煉を放棄する可能性があります。
このような例はたくさんあります。比較的典型的なものとして、多くの人が病気を治したり健康を改善したいという目的で大法修煉に入った場合、誰かが、または自分自身が修煉で病気が治らなかったとき、だんだん大法を信じなくなります。さらに、中には、師父が初期に功を伝えられたときに、病気を抱えながら修煉を始めて健康になったものの、何年も経ってから新たな病業の魔難に苦しんでいる同修もいるかもしれません。
また、大法の中で保険をかけることに執着し、死を恐れ、様々な災難に遭うことを恐れ、修煉によって「吉を招き凶を避ける」ことを望む人もいます。しかし、大法弟子の中でも人が死んだり、様々な災難が訪れたりするのを見ると、特に「有名人」や「中心的な人物 」となる大法弟子の中でも、訴訟や投獄、離婚などが起こることがあります。そうしたことを見ると、修煉に対する意欲が失せます。
魔難の中で、人の心を見ているのです。根本的な執着を長い間取り除かなければ、いつのまにか、常人の様々な執着心に引きずられることになります。最終的には旧勢力があなたを害するために、あなたを常人よりも悪く変えさせ、さらには大法の反対側に立たせる可能性があります。
根本的な執着が生じる深層的な原因
なぜ私たちはこの根本的な執着を持っているのでしょうか? それには必ず根源があるはずです。
私は自分の根本的な執着を掘り下げてみると、それは世間の安逸を求める心、色欲、功利主義的な考え(現実的な見返りを重視する)、最小限の努力(真剣に修煉しない)で最大の報酬(人生の保険、運が良ければ最低限の果位を得る)を得ようとする狡猾な心で、主にこれらの心の働きによって生じているのです。多くの場合、大法を修煉することで、常人生活をより良くしようとしているだけで、修煉そのものに専念しているわけではありません。
簡単に言えば、ただ大法の中に紛れ込んでいるということです。
なぜ根本的な執着は発見しにくいのか
多くの場合、関連する交流文章を読むと、他人の根本的な執着は簡単に見つけられるように思えるのに、自分のときはなぜそんなに見つけにくいのでしょうか?
その理由は実にシンプルです。それは、あまりにも自然に表れているからです。自然すぎて、まるで自分自身の考えのように感じ、すべてが当然のことのように思えるのです。しかし、法に照らし合わせず、常に常人のやり方や方法を用いれば、この根本的な執着を永遠に見つけることはできないかもしれません。法を基準にしなければ、それを見つけることができないからです。たとえそれがはっきりとそこに現れていても、もしかしたら他の人がそれを見て指摘したとしても、自分自身ではそれを目にすることができないのです。
例えば、常人の立場から見れば、長い間煉功しても「病気」が治らないのに、なぜまだ煉功を続けるのか、頭がおかしいのではないか、と思うかもしれません。もし私たちの最初の反応がこの見方に同意し、これが正常な論理だと感じるなら、考えてみてください。それは根本的な執着が見えないということではないでしょうか?なぜなら、それ以上考えることをせず、自分の観念に阻まれ、すべてがあまりにも正常だと感じてしまうからです。これが根本的な執着を発見しにくい理由なのです。
結論
真剣に法を学び、あらゆることを法に照らし合わせるよう努力することでのみ、法の力を使って迷いを打ち破り、根本的な執着を見つけ、取り除くことができると気づきました。この根本的な執着を見つけた後、突然それを掘り出すのが非常に簡単に感じられました。しかし、その前は長期にわたって法を学び続けた基礎がなく、人間の心や考えで常人のような分析をしていました。そのため、長年にわたり自分には根本的な執着がないと思い込んでいました。今になって振り返ると、本当に恥ずかしい限りです!
私の経験を書き記すことで、同修の皆さんと共に励み合えればと思います。共に精進し、怠らないようにしましょう。