中共は恩を仇で返す 反米、法輪功迫害(上)
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——中国とアメリカの物語を正しく語る

文/何義

 【明慧日本2025年4月10日】中共は最近、アメリカの神韻芸術団や法輪功に対して集中的な攻撃を仕掛けており、外部から大きな注目を集めている。今回の中共による法輪功への攻撃は、1999年に江沢民が行ったものとは理由が異なる。江沢民の場合は、完全に個人的な嫉妬心からの弾圧だった。しかし、今回の中共の目的は、アメリカを破壊し、アメリカに取って代わって世界一の強国になることにある。そして、その過程で法輪功への迫害という歴史的な罪をアメリカに擦り付けようとしているのだ。つまり、これは中共の最終的な反米戦略の一環なのである。

 一、中共の反米に潜む二つの顔

 中共の反米・憎米は、昔から続いていると言える。アメリカの強大さと民主主義制度の優位性に嫉妬し、アメリカに対して根本的に狂気じみた憎しみを抱いている。全面的な反米・憎米の目的を達成するために、中共は長年にわたり中国の民衆の間で反米感情を煽り、アメリカを貶めるプロパガンダを展開してきた。一部の「反米戦士」たちは、自国民をターゲットに認知戦を仕掛け、アメリカとアメリカ国民を大いに貶め、誹謗中傷している。

 例えば、「アメリカの中産階級は中国の農民工より生活が苦しい」「中国の2000元はアメリカの3000ドルより価値がある」「アメリカはもう終わった」「アメリカなんて誰が行くんだ」など、完全に事実を歪曲し、真実を隠蔽する言説や記事が中国本土の世論で自由に流通し、官製メディアによって大いに支持されている。

 同時に、中共は反米思想を愛国主義として包装し、「米中は必ず戦争になる」といった攻撃的な論調を広めている。長年の洗脳と宣伝により、中国の人々は善悪の判断ができなくなり、騙された「小粉紅」(盲目的な愛国主義の若者達)はアメリカが「中国を敵視している」「アメリカ帝国主義は中国を滅ぼそうとしている」と誤解している。こうしたデマが煽る憎悪は暴力に繋がり、2024年の端午節には「義和団事件」が発生した。吉林省の北山公園で、アメリカのコーネル大学の教員4人が中国人男性に刃物で襲われた。この事件は国際社会から強い非難を浴びたが、中共当局は「偶発的な事件」として片付けた。

 しかし、中共の反米・憎米には二つの顔がある。ただひたすらに憎んでいるだけでなく、別の意図を持った「愛」も存在する。

 トランプが第47代アメリカ大統領に当選した後、中共は突然「アメリカを愛する」姿勢を見せ始めた。アメリカの動物園がパンダを虐待しているとデマを流した12人の小粉紅を逮捕し、有罪判決を下したほか、アメリカ大使館のSNSから反米・憎米コメントを一掃し、党の宣伝機関は「中米友好の良い話を語ろう」という投稿募集キャンペーンを開始した。

 これは中共が得意とする戦術であり、いわゆる「革命の二手」、つまり、一方は強硬策、もう一方は懐柔策を使い分けるという手法である。表向きの態度と裏の実態が異なるのが中共の特徴だ。党内の粛清、政治運動、外交においても同じである。現在、「戦狼外交」がトランプという強硬な壁にぶつかったため、中共は突然「友好的」な姿勢を装い、戦略的な欺瞞を展開している。

 「中米友好関係」と言えば、歴史的にアメリカは中国に何度も無私の助けを提供してきたが、中共がアメリカに友好的な対応をしたことはほとんどない。それどころか、アメリカからの援助や善意に対して、中共は感謝するどころか、むしろ恩を仇で返し、執拗にアメリカと対立しようとしている。

 歴史を振り返り、現実を正しく判断するために、まずはアメリカが歴史上どのように中国を支援し、中共に善意を示してきたかを簡単に振り返ってみよう。

 二、アメリカが歴史上中国を支援した事例

 中共の嘘に満ちた教科書では、近代史は「帝国主義が中国を侵略した歴史」として描かれており、その中でも特にアメリカが最も悪質な存在であるかのように語られている。しかし、実際には列強による中国侵略の中で、アメリカが中国に与えた損害は最も少なく、むしろ中国はアメリカとの関係から多くの利益を得てきたのである。

 1. 清朝(乾隆時代)におけるアメリカの対中貿易第二位

 1784年、アメリカ初の対中貿易船「中国皇后号」が中国に到着した。これにより米中貿易の門戸が開かれ、双方は平等かつ互恵的な関係を築いた。アメリカ人は他国よりも中国の法律を遵守し、アメリカはすぐにイギリスに次ぐ中国との貿易第二位の国となった。この貿易を通じて、中国は大量の金銀を得ることができた。

 2. 清朝(同治時代)との平等条約

 1868年、アメリカと清朝は「蒲安臣条約」を締結した。蒲安臣(アンソン・バーリンゲーム)は当時のアメリカ大統領リンカーンによって派遣された駐清公使で、開放的で対中友好的な人物だった。当時、多くの中国人がアメリカで働いており、アメリカ側は清朝に駐米領事の派遣を促した。すると、清朝は思い切って蒲安臣を欽差大臣に任命し、中国を代表して諸外国に派遣した。彼の最初の訪問国はアメリカであり、そこで中国文化を紹介し、中国の平和愛好の精神を称賛する演説を行った。そして中国政府を代表してアメリカと交渉し、中国の利益を守るために「蒲安臣条約」を締結した。これはアヘン戦争後、中国が外国と結んだ最初の平等条約であった。

 3. 辛丑年(1901年)の門戸開放政策

 1901年、アメリカは門戸開放政策を提唱し、主に中国(清朝・光緒時代)を対象とした。当時、ロシア、フランス、イギリスなどの列強は中国で勢力圏を持っていたが、アメリカの門戸開放政策は中国の主権の維持を助けた。特に、ロシアによる中国東北部の侵略を阻止し、列強による中国領土の分割を抑制する効果があった。

 4. 庚子賠償金の教育資金への転用

 「辛丑条約」に基づき、中国はアメリカに対して賠償金の7.32%にあたる総額約3,000万両の銀を支払うこととなった。しかし、アメリカはそのうち1,000万両以上を中国に返還し、教育事業のために活用させた。その一環として、中国からアメリカへの留学生派遣や、清華学堂(現在の清華大学)の設立が行われた。

 1924年(中華民国・曹錕、黄郛、段祺瑞政権下)、アメリカは再び庚子賠償金の1,200万ドル以上を返還し、中国はこれを用いて清華大学を正式に創設し、当時東アジアで最も先進的な図書館の一つである「国立北平図書新館」(現在の中国国家図書館古籍分館の前身)を設立した。

 1929年、中国は庚子賠償金を活用して47名の留学生をアメリカに派遣した。彼らの多くは後に帰国し、その中には中華人民共和国で核兵器開発に貢献した科学者も含まれていた。さらに、燕京大学(現在の北京大学)や北京協和医院の設立にも、庚子賠償金の返還資金が使われた。

 5. フライング・タイガースとヒマラヤ越えの「ハンプ航路」

 1941年7月、アメリカのクレア・リー・シェンノート将軍は退役軍人を招集し、「フライング・タイガース(飛虎隊)」を結成して中国を支援し、日本に対抗した。当時の中華民国の大統領は蒋介石であった。日本の戦略物資封鎖を打破するため、アメリカ陸軍航空隊の輸送司令部(ATC)と中国航空公司(CNAC)は、ヒマラヤ山脈を越える「ハンプ航路」を開拓した。しかし、この航路は飛行が極めて困難であり、「死の航路」とも呼ばれた。戦後のアメリカ公式統計によると、アメリカ空軍は「ハンプ航路」で合計468機の飛行機を失い、1579人のパイロットや乗組員が犠牲または行方不明となった。フライング・タイガースとハンプ航路は、中国の抗日戦争勝利に不可欠な貢献を果たした。

 6. 不平等条約の廃止

 1943年、アメリカは中国の抗日戦争を支援するため、アヘン戦争以降に締結された全ての不平等条約を率先して廃止した。これを受け、イギリス、ドイツ、イタリア、日本も同様の措置を取った。これにより、外国租界と領事裁判権が中国から消滅し、中国(中華民国)は国際社会において平等な一員となった。

 7. マーシャル調停とトルーマン・ドクトリン

 1945年2月のヤルタ会談では、アメリカは中国共産党(中共)に対して宥和的な姿勢を取り、中華民国の主権を損ねる結果となった。ソ連は中国東北部で多くの優先権を獲得し、後の共産党の台頭につながった。

 1945年末から1946年にかけて、アメリカのトルーマン大統領はマーシャル将軍を派遣し、国共内戦の調停を試みた。アメリカは国民党軍(国軍)の武器供給を断ち、蒋介石に対して共産党との民主連立政府の設立を強要した。しかし、共産党は表向きには和解を装いながら、裏では国軍を攻撃し、交通を妨害していた。マーシャル調停の失敗により、国軍は共産党討伐の好機を逃し、同時に中華民国の経済も破綻し、共産党が勢力を拡大する要因となった。

 1947年、アメリカは世界的な共産主義封じ込め政策として「トルーマン・ドクトリン」を発表したが、中国共産党に対しては例外的に甘い姿勢を取った。太平洋戦争中からアメリカ政府内には親共産党派の人物(スティルウェル、デイヴィス、マーシャル、トルーマンなど)が多く存在し、彼らの政策が結果的に中華民国を弱体化させ、中国共産党の政権掌握を許すこととなった。

 8. 国連常任理事国の地位

 1945年、中華民国はアメリカの強い支持のもと、サンフランシスコ国連創設会議に参加し、中共代表の董必武も中国代表団の一員として『国連憲章』に署名した。中国(中華民国)が国連の創設国および五大常任理事国の一つとなれたのは、アメリカの支援が大きかった。

 1971年7月9日から11日(中共国時代)、アメリカの国家安全保障担当補佐官であるキッシンジャーが極秘に訪中し、中共国の周恩来総理と会談。その後、アメリカは中華人民共和国(すなわち中共国)が国際連合の代表権を獲得することを受け入れた。同年10月25日、国際連合は第2758号決議を採択し、中共政府の代表を国際連合における中国の唯一の正当な代表と認め、中華人民共和国を安全保障理事会の五大常任理事国の一つとした。

 9. ニクソン訪中と毛・周との会談、カーターによる中共との国交樹立

 1972年2月21日から28日、アメリカのニクソン大統領が訪中し、中南海で毛沢東と会見し、周恩来らと会談を行った。この訪問は「世界を変えた一週間」と呼ばれ、アメリカの歴史において二度目の対共宥和政策の扉を開いた。訪問終了前、両国は「上海コミュニケ」を発表し、これを機にアメリカは徐々に台湾から撤兵を開始した。

 1977年、カーターが大統領に就任し、1981年の退任前の1979年1月1日にアメリカは中華民国と断交し、中華人民共和国と全面的に国交を樹立した。この時点で、キッシンジャーの秘密訪中から約7年が経過していた。米中の国交樹立後、両国関係は蜜月期に入り、アメリカの主要な同盟国である日本、オーストラリア、西ドイツ(当時)も次々と台湾との公式関係を断ち、中共との外交関係を樹立した。これにより、中共国は国際社会に受け入れられる一方で、中華民国は国際社会から孤立する世界情勢が生まれた。

 10. ブッシュ(父)政権による中共への宥和政策

 1989年の中共による天安門事件(六四事件)後、アメリカのブッシュ(父)政権は中共に対し何度も「裏口」を開いた。例えば、特別免除命令を承認し、ボーイング社が中国に4機の商用機を販売することを許可したり、軍事制裁を緩和したり、中国当局者のアメリカ訪問を許可したりした。さらに、中共戦闘機の「平和の真珠」計画の推進も続けられた。ブッシュは半年以内に2回も鄧小平に書簡を送り、特使を北京に派遣し、アメリカが中共と協力して困難を乗り越えることを強調した。事実、アメリカは中共がこの危機を乗り越える手助けをしたのである。

 11. クリントンによる中共のWTO加盟支援

 1999年7月、中共の江沢民は、1億人の法輪功学習者に対する政治弾圧を開始した。各地での陳情が封じられたため、法輪功学習者たちは一人または二人で北京へ向かい、公正な発言を求めたが、結果的に多くの陳情者が逮捕・拘束されることになった。同年10月、中共は北京法輪功研究会のメンバー数人を起訴しようと画策した。これに対し、クリントン大統領は10月に2度も江沢民に電話をかけ、中共のWTO加盟についての合意を求めた。

 2000年3月、クリントンは演説で「貿易と人権を切り離す」と発言し、中国のWTO加盟が経済の自由をもたらし、国民により大きな発言権を与えると主張した。クリントンはホワイトハウスに「中国ルーム」を設置し、反中共派の議員を説得する活動を行った。さらに5月には、クリントンは前大統領のカーター、フォードをはじめとする数十名の元高官をホワイトハウスに招集し、議会に対し中共に恒久的貿易特権を付与するよう促し、中共のWTO加盟を後押しした。

 アメリカの後押しの下、2001年12月11日、中共は正式に世界貿易機関(WTO)に加盟した。これにより、共産主義最後の砦が自由世界の貿易共同体に正式に加わることになり、中共が世界支配を目指す上で極めて重要な経済的飛躍の基盤が築かれたのである。

 (続く)

 
翻訳原文(中国語):https://www.minghui.org/mh/articles/2025/1/14/488300.html
 
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