大法は洪大な範囲に伝わって光り輝き、佛の洪恩が衆生を救い済度する(一)
■ 印刷版
 

明慧日本2012年1月1日)

 2006年3月は尊師が大連で法輪大法を伝えられて12周年となったところで、われわれ古い学習者はこの上ない崇敬の念を抱いて、尊師が当時に大連で大法を伝えられた貴重な歴史を追憶する。当時われわれは自ら尊師の?々と諭された教えをお聞きして、自ら尊師の長旅の苦労を眼にし、自ら大法の玄妙と不思議さを感じ、自ら尊師の洪大な慈悲を感じ取った。

 一、 師父はわれわれを大法修煉の道へと導かれた

 どの学習者も自分が法を得、修煉する経験があり、偶然に見えるが、実は皆縁によるものであり、皆尊師に導かれて大法修煉に入った。我々はこの千古の機縁を大事にしましょう。一人の学習者は自分の大法修煉に入ったきっかけを語った。

 ① 仏縁がずっと私を引いている

 私が小学校から学校教育と社会から受けたものは皆唯物論と無神論のものばかりであった。また「精神アヘン」「封建迷信」などの言葉で宗教信仰を批判して人々に正しい信仰を信じさせなかった。しかし、無神論の宣伝と邪霊による破壊は、生命の上界との連係を切り離すことが不可能であり、人々の悠久の仏縁と数千万年待ちつづけた望みを抹殺することもできない。

 かつて中学生の時に夢を見た。夢の中で大昔私は黄色の道服を着ている師父について修練していた。当時の場面が夢にはっきりと見えており、非常に印象的だった。1980年以降私は名山、寺院ばかりでなくあちこちへと師父を探しに行ったが探し当てられなかった。

 1993年10月私は山東省安丘へ出張した。ある日の昼、ホテルの部屋で銀色の白い光が私にまっすぐ向かってきた。私の額に射し込んできて、その時私は一筋の巨大な吸引力で前へ進んでいるような気がし、眼前のすべてが飛ぶように速く後ろへ移動していた。このとき、一人の慈悲深く和やかな佛が私の眼前に現れた。私は眼前の景色に驚かされた。なんと宇宙に佛や神が実在するのだ。当時私は興奮と疑惑を持ちながら、自分の知人や親友に長距離電話をかけた。皆が佛を見たのはいいことだと言ってくれた。佛を信じることは佛が存在することだ。

 次に、仏を見た時は私の大脳に存在していた「無神論」や「封建迷信」などの後天観念を一掃してくれた。その後、私は系統的に佛教経典を読み始め、『道徳経』も暗記することにした。気功ブームの中、私は数多くの気功師の気功伝授会に参加したが失望ばかりをしていた。不思議なのはどんな気功伝授会に参加してもそばに必ず一人の大佛がいるが、この大佛が非常に大きくて私もこの大佛の顔の一部分しか見えなかった。今から当時のことを振り返ると、師父の法身がずっとそばで迷いの中に落ちていた私を見守ってくださっていた。偉大で慈悲なる師父は弟子たちが法を得るのに本当に苦労を嘗め尽くされた。

 1994年旧暦の正月前に私の同期の友人が北京から私を訪ねてきたが、彼は「現在法輪功が北京で非常にはやっており、十数回の伝授会を開いた。受講する人がますます多くなっており、特に李洪志大師が本当にたくさんの奇跡を起こしてすばらしかったよ」と非常に興奮した様子で私に法輪功を紹介した。彼は北京の戒台寺で功法ビデオを作るために尊師を録画し、ちょうど第三功法「貫通両極法」のところをとっていたそのとき、風が吹き荒れてきた。太い木までも強風の中で揺れてきた。彼は「風があまりにも強すぎるので録画できない」と困った顔をしながら尊師に言った。尊師は「あなたはビデオカメラを調整して下さい、私は風を止めるから」と静かに言われた。当時彼はこれほど強い風を止めるのは不可能じゃないかと思いながら、ビデオカメラを調整した。そして、「李大師、ビデオカメラの調整が完了しました」と尊師に言った。彼の言葉が口から出た途端、師父の周囲の風が固定されたかのように止まり、髪の毛さえも吹き上がらなかったが、その一層外側の風は依然として強く、松ノ木は激しく揺れていた。第五功法「神通加持法」をとっていたときに三脚が偏っていたので、レンズの焦点が師父からずれていた。師父がもうちょっと右に移ってくださればと思ったところで座禅をしていた尊師が浮いてきて自動的に右に少し移られた。このことは彼を大きく驚かせ、この大師は本当に不思議であり、普通の人ではないと感じた。今から当時のことを振り返ると、彼は私に尊師と法輪功を紹介するためにわざと大連にやってきたことは、実に尊師が彼を通して私に法輪功を知らせ、大法修煉に入せるためであった。

 1994年3月27日に大連で一期目の法輪功伝授会が、大連外国語学院の講堂において開講された。当時約500人がこの伝授会に参加し、最初の日に私は最後の一列に座っていたので、師父の顔がはっきり見えなかった。しかし尊師の説かれた高次元の法理はすっと私の心の底まで入ってきた。私は思わず涙を流した。全身が佛法の慈悲に浸っているかのように、今まで感じたことがない清新な玄妙さを感じ取った。当時右手の甲の血管から何かを引っ張り出されたかのように感じ、体が完全浄化された。

 二日目に私は前から2列目に座り、聴講の準備を整えた。頭を上げると、知らないうちに尊師がすでに講壇に居られた。私は驚いた。この方は私が山東省安丘市で見た大佛ではないかと、これは私がずっと探していた師父ではないかと、感激の涙が思わずこぼれた。私は師父の説法を聞きながら涙を流しており、どうしてもコントロールできなかった。講義が終わった後、私はもう待てなくて、心の中で「師父、ついにあなたを探し当てた」と叫びながら、師父のところへ向かった。その時師父はほかの地区からの古い学習者とお話をされていた。私はそそっかしくて人を押しのけて師父の前にやってきた。佛家の合掌の礼儀を知らなかったため私は手を差し伸べて「師父、こんにちは」と言った。師父は私をじろじろ見てから私と握手された。このとき、私は師父を眺めて数世紀がすぎたかのような感覚だった。我に返った後、私は人を押しのけて講堂を走り出て、空と大地に向け「私は師父を見つけた。私は真の佛を見た」と叫んだ。永年の佛縁がずっと私の心を引いており、尊師がずっと私を大法修煉に導いてくださった。

(続く)

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2006/3/28/123858.html)
(English: http://www.clearwisdom.net/emh/articles/2006/4/23/72317.html)     更新日:2012年1月1日
 
関連文章