青年の同修と分かち合いたい体験(二)
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明慧日本)

、結婚についての教訓

 あっという間に私は修煉を始めて14年も経ち、何も知らない子供から若者になり、結婚問題に直面しなければならなくなりました。結婚するなら同修と結婚したいと思いましたが、故郷に適齢の男性同修がいなかったため、私は結婚を断念しました。

 ちょうどその時、知り合いが男性の同修Aさんを私に紹介してくれ2人は付き合い始めました。しかし互いに「情」が強くて、うまくいかずに別れました。別れてから、私は毎日内に向けて探し、今まで気付いていなかった多くの執着に気付き、多くの執着を取り除きました。これで、やっと彼に対して常人の情を持たなくなりました。

 乱世の中で私は大法弟子として、宇宙の大法を基準にして純情を保ち、世の中の不潔さと卑猥さを排斥しています。しかし常人の中の恋人や夫婦の相思相愛の場面を見ると、とても強い孤独を感じ、寂しくて悲しくなります。私の体に神性と人性が同時に存在していて普段、二者が激しく交戦していない時、自分の内心に深く隠れている人性に気づきませんでした。Aさんと付き合った時、私は思わず「情」に対する願望を彼に託していました。例えば、よく同僚から夫がどれほど優しいかを聞くと、私は羨ましくてAさんにもそのような優しい人であってほしいと思ったりしました。しかしAさんは自分の弱点を私に暴露して、私の幻想を壊しました。でもそれはAさんが悪かったのではなくて、すべては私の人心がもたらしたことです。私は片手に成仏することをつかみ、片手に常人の欲望をつかんでおり、修煉して良い人間になったAさんを通じて自分の「幸せな生活」に対するあこがれを実現したかったのです。これは実際に大法を利用して自分の私欲を満足させようとしているのではないでしょうか? どれほど汚い考えでしょう!

 このような目的を抱えていれば、同修と結婚しても何の意味もなく、常人と結婚することと同じになるでしょう。同修と結婚すれば、優しくしてもらうことができ、また同修はきっと常人のように将来浮気なんかしないと私は考えました。しかし同時に結婚したら常人と同じような夫婦円満の生活を期待して、まさに”二兎追うものは一兎をも得ず”の妄想です。別れた後明慧週刊』を読むと、「情はとても頼りにならないもので、いつでも変わる」と書かれており、私の心はぱっと明るくなりました。

 今の常人社会はどうしてこんなに乱れているのでしょうか? 気の向くままに何の結果も考えていません。それは情にコントロールされて、主意識がぼんやりしているからではないでしょうか? たとえ学習者であっても、情が重いと、常人と同じくころころ変わって信頼できないという一面を持っています。学習者が持っている道徳と責任感は、かえって情を放下させて外来の変異物質に制御されないのです。主意識がしっかりしているからです。万事は大法の要求に従って、いかなることにも動じない、それこそ大法弟子常人と異なる高尚な品格で、乱世の清流です。

 「情」は一種の虚像で、本当の自分ではなく、人と人の間の因縁関係こそ現世の婚姻の根本的な原因です。もしこの虚像に惑わされて、人間社会の一時的なものを求めれば、永久不変の真相を知る機会を失うのです。

、正しく自分を評価し、傲慢な部分を直す

 幼いから修煉を始めたため、私は比較的単純で素直な性格になっています。これは長所ですが、このような「率直さ」は他の人の気持ちを考えず、人を傷つけてもかえって自分の素直さが正しいと思って誇りにするという一面がありました。また自分の悟性が良いと自惚れて、話す時はいつも相手を見下す態度になり、相手を説教します。現地の同修は私と言い争いをせず、時々「よく修煉できているね」と褒めてくれので、私はますます自惚れてしまいました。私の態度を受け入れてくれない同修に対して、私は「こんなに厳しく言っているのは全てあなたのためなのに、私の意見を受け入れないなんて。まったく人の意見を聞かない人だ」とぷんぷんしました

 若い学習者は党文化と社会の風潮に影響されて、尊大になりがちで自由に個性を伸ばしたがります。周囲から抜きん出ていると本人は自惚れますが、このような個性は実に利己的でわがままなものです。私の行為を気に食わない同修はあいまいに「今の女の子は皆自惚れて、自分がどれほどすごいと思って、とても傲慢だ」と言いました。これは彼女の口を通じて師父が私にお告げをしてくださっていのですが、私はそうと悟らずに自分はそのような人間でないと彼女の言葉を気にとめませんでした。今振り返ってみると、以前の自分は確かに腕自慢で、よく自分の能力を誇りたくて、また自分の教育レベルが高くて法に対する理解が深いと思い、好んで自分のよく修めた部分で同修のよく修めていない部分を指摘しようとする癖がありました。これは一種の空虚な優越感で、自分がよく修煉できていると自惚れ、言葉と行動に自然にその気持ちが現れて、人為的に同修との間に間隔を作ってしまいました。

 単純な心を持つのは良い事ですが、相手の立場に立って考える配慮があれば、私は思うままに無茶をしないでしょう。本当に人のために考えていれば、自分の思うままに思いついたことを何でも口にする態度を変えるでしょう。慈悲心を持たずに人の不足を指摘すると、相手を変えたいという強引な気持ちになるだけで、相手の抵抗、闘争心などを起こしやすく、良い効果を収められず、また同修の間の対立を引き起こしてしまうのです。

 尊大と傲慢は実は情から派生し、後天の観念から生じた産物で、これを解決する最も良い方法は内に向て探すことです。他人ばかりを見ると、自分が誰よりも良く修煉できたと勘違いしやすく、内に向けて探し自分を高めてこそ、はじめて同修の長所が多く見えて、同修と一つの全体になることができます。本当にそうです。ある日、私はあまり精進していない某同修と交流して、2人とも互いに交流を通じて向上したと感じました。表面から見て精進しているか否かに関わらず、私達は一つの全体であり、誰かが誰かを引っ張って精進するという問題は存在せず、引っ張る側も引っ張られた側もともに向上して昇華するのです。

、情を放下する

 情を放下する過程はそれほど順調ではなく、執着を放下出来ない時の苦痛もあれば、昇華してからの喜びもあります。またその過程は何回も繰り返され、各種の執着心も浮び上がって、私のよく修めていない部分を刺激しました。師父のご加護と啓示と励ましがなければ、絶対乗り越えられません。師父に対する感謝の気持ちは言葉で言い表せないもので、ただ勇猛邁進してこそ師父の慈悲深い済度と切実な期待に応えられると思います。

 情を除去するための特効薬は何もなく、ただ100パーセント師父と大法を信じて、師父と大法の要求に沿って努力するだけで自然に向上できます。以下の心得に不足があれば、同修の慈悲なるご叱正を仰ぎたいと思います。

 1、多く法を学ぶ。法は私達の知恵の基礎と源であり学法は向上の基本的な保証です。大法の指導から離れるといくら理解力が良くても常人の視点から問題を見て、法を踏まえて冷静に考えることができません。情を放下する中で最も苦痛な時期に、師父は何度も私に学法しなさいとお告げをしてくださいましたが、旧勢力と自分の後天の観念が妨害をしました。この時、師父の按排に従うか旧勢力の妨害通りになるかが問題です。

 学法する時眠くても集中力が低くても、私は気にとめずにただひたすら法を学びます。『論語』を45回読んでも全然意味が分からない時もあったのですが、私はめげずに集中できるまで、意味が分かるまでもう一度、もう一度と読みました。学法の意志が強ければ師父は私達のために多くの妨害を取り除いてくださるので、くれぐれも惰性を放任しないでください。また、困っている問題の解決法を探すという目的を抱えて学法してはいけません。そうするとかえって効果が良くないのです。「求めずとも自ずと得る」のです。

 2、長時間発正念をする。「情」と「色」が浮かんでくる時、それらが頭の中に充満して、特に学法煉功発正念の時まったく心が落ち着きません。「情」は実は一種の物質的存在で、それを除去すれば、人間の「情」が動じることもなくなる、と師父は私たちに教えておられます。そのため、私は何回も長時間に発正念して「情」の魔を除去し、一番長かった時で連続2時間発正念をしました。最初、頭の中の乱雑な念を抑えられなくて、何回も中止しようと迷いましたが、自分の世界が清らかになるまで頑張ろうと諦めませんでした。連続2時間発正念した時、1時間半が経った後やっと入静できたのです。自分の体が二つに割れて、半分は修煉者で半分は常人で、神である半分の体が次第に拡大して、とうとう常人である部分完全に取って代わったように感じました。最後になってますます心地良くて、もっと長く発正念したくなり、全身はエネルギーに包まれて頭の中は空っぽになり、静かで和やかでした。終わった後、腕が疲れて震え出したことに気付きましたが、でも発正念の時にどうして疲れを感じなかったのでしょうか? 入定の状態に入っていたのでしょうか。発正念して自分の空間場にある悪いものを大量に一掃したことは、「情」の関を乗り越えることに大きく貢献しました。発正念は続けることが大切で、目前の効果を気にしないでください。情の難関は繰り返し現れるので、すぐに効果が見えなくても決して正念の効果がないのでなく、続けて発正念さえすればきっと自分に良いのです。

 3、内に向けて探す。彼と別れた初期に、私は努力して自分の不足を探しましたが、内心ではやはり彼の良くないところばかりを気にしていました。多く学法発正念をして、私はやっとその「目」を自分に向けました。それで、彼が持つすべての短所を私も同様に持っていることに気付き、私は驚きました。ただ彼は正直で本当の考えを言い出す勇気があり、私は自分の執着を隠すことが得意で、短所が表に現れないだけでした。別れた時、彼の言葉は鋭利な刃物のように私のずっと隠していた執着を刺し、私の隠れた執着心を掘り出して私に見せたようでした。修煉者に偶然なことはないので、師父は彼の口を通して私に自分の執着心に気付かせてくださったのでしょう。「人を見る目で自分を見直す」、私が理性的に自分を見る試みはこの時から始まったのです。自分の度量が大きいから彼を恨まずに済んだとずっと思っていましたが、結局自分にも同様欠点があり、本当に五十歩百歩だったのです。修煉のことは誰も代わってもらえないので、しっかり修めたら受益するのは自分自身で、他人の不足をじっと見つめても何にもなりません。だから問題に遭ったら必ず内に向て探すことで、自分が向上できると同時に同修との間の間隔をも取り除くことができ、同修と一つの全体を形成することもしやすくなります。

 4、真の自分を見分けます。真のお告げと偽のお告げについて、師父は『2009年大ニューヨーク国際法会での説法』で「邪悪の要素の妨害は多くの場合、あなたの執着、あなたの歓喜心、好み、各種の人心に沿って偽のお告げを与えるのです。お告げを受けてあなたはさらに喜んでしまい、執着し、間違った道に入るのですが、それが師父から教えられたからだと言うのです。多くの場合はこういう状況です」と説かれました。修煉の中に神性と人性の交戦は常にあり、法の要求に沿うかそれとも自分の執着を放縦するかは、精進する程度を測る基準でもあります。

 色欲を放下するように頑張っていた時、学習者が書いた『放任しないように、鬼を招かないように』の文章を読みました。その文章を師父は『片付けよ』と書いて評註され、「多くの場合、皆さんが嘗めた苦は本当に人心によってもたらされたものです」と説かれました。あれ以来、学法して眠くなる時、色欲がうごめく時、Aさんに心から未練や憎しみが生じる時、私は自分に「放任しないように、鬼を招かないように、真の自分を見分けて、人心と観念でできた偽の自分を除去しよう」と言い聞かせます。では、真の自分と偽の自分はどこが違いますか? 問題を見る時の角度が違っているのだ、と私は思います。真の自分は法に則っているので真相を見極めることができ、神の角度から問題を処理するので、根本から問題を解決することができます。この道理が分かれば、虚像に惑われることなく、常人の中に陥って抜け出せないこともありません。

 5煉功を強化する。若い学習者は安逸心が強く苦に耐えられず、また若いから健康面の問題が少ないので、煉功を疎かにしがちです。私は元々とても怠惰な人間で、煉功すればとても心地良くなると分かっていても煉功をしたくありませんでしたその後、自分の惰性を除去するために煉功を重視し始めたのですが、煉功の効果を体得していませんでした。ある日、私は情と色魔に深刻に妨害されて、いくら努力して排斥しても効果がありませんでした。発正念を試みましたが頭はひどく混乱していました学法する時は頭が澄んで問題ないですが、会社に行くと再び魔が襲ってきて手の打ちようがなく、とても苦痛でした。

 家に帰ってひとまず私は煉功をしました。煉功が終わると意外に心が清浄になりました。その日、師父が根源から私の「情」と「色欲」を消去してくださり、しかも外部の妨害も加わったため、現れた反応は激しいものでした。煉功は根本から問題を解決することはできませんが、やはり役に立つのです。煉功すれば本体を転化させてエネルギーを強め、私達の神である一面を呼び起こすことができるので、煉功は決して表面だけの効果を果たすに留まらないと私は悟りました。「修」の補助手段として煉功は私達の向上に同様プラスの効果があります。そのため、煉功はとても重要なことで、重視しなければなりません。

 自分が歩んできた回り道から教訓を汲み取り、青年同修互いに励まし合いたいと思います。皆が最も短い時間で難関を突破できるように希望します。多くの衆生は済度を待っており、私達は重大な使命を担っているので、無駄に使う時間は本当に残っていません! 衆生は大きな勇気を持って済度されるためにこの世に下りてきたのです。彼らの期待に背かないようにしましょう。

 師父に感謝いたします。

(完)

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2011/7/11/243772.html)     更新日:2011年12月22日
 
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