「最初の一念で師父を思う」ことは正念である――同修の文章を読んだ所感
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 明慧日本2012年1月12日)長い間、修煉の中である問題(状態)に悩まされていました。修煉の高まり多くの場合は正念(自分の次元で悟った法理)を持って直面する大小の出来事に対処できるようになりましたが、しかし自分の念が正しいと分かっていても、なぜかどうしても神の行いができませんでした。特に多くの同修の正念に由来する正しい行いを見るたび、更に同修との距離見えてきました

 20111230日、明慧ネットで発表された同修の文章自我を放下してようやく師を敬い法を敬うができる」を読んで、文章の中で取り上げられたいくつの修煉のストーリと同修の修煉事例に心を打たれ、自分の問題はまさにこの最初の一念にあると意識しました。自分は多くの時、師父を思わず、人間の念を用いているので、修煉者の念(正念)にしても、修煉の異なる次元で法に対しての理解に限られているので、ま取り除いていない人心と観念があります。師父は『大法弟子は必ず法を勉強しなければならない』中で、私達に「本当の自分は司っていますが、力が足らず、場合によってはどうすることもできない時もあります。なぜなら、宇宙の旧勢力ははるかに強いうえ、あなたは三界の逆になった理に埋もれてしまったため、師父があなたを見守り、手助けし、このすべてを掌握しなければなりません」教えてくださいました。しかし、私は多くの時この関係を正しく扱うことができなかったので、法の力が自分のところで現れませんでした。

 この問題を振り返ってみると、実は997.20のとき師父はすでにお告げくださいました。98年末から99年の年初に至り、私は法を正す時期の修煉に関する夢をいくつか見ました。一つは数人の悪人が家に入り込もうとして、私は部屋の中で全力でドアの取っ手を引っ張って、彼らは外で引っ張っていました。この緊急事態に、私は師父に救援を求め、「師父、師父、師父」と呼んだ途端、取っ手を引っ張っていた腕にエネルギー加持されどんどん強くなりました。しかしこの時「修煉者として何に遭遇しても自ら対応しないといけない、いつまで経っても師父に頼ってはいけません」という一念が私に生じました。この一念で腕はただちに常態に戻り、エネルギーの加持がなくなった私は薄く感じ、それで目覚めました。当時個人の修煉を確実に行なうのをとても重視していたので、ひたすら自分が着実に修煉できるようにと思いました。故に当時夢の中の自分の念は間違っていないと思い、深く考えませんでした。7.20後、この夢を数回思い出すこともあったのですが、ただ肝心師父を思うべきと悟り、さらに深く考えていませんでした。

 今考えてみれば、最初の一念師父を思うか否かは、決して小さい問題ではなく、「師父を信じ師父を尊敬する」ことは厳粛問題と認識しました。「師父を信じ師父を尊敬する」事は修煉に入ってまず解決すべき問題だったと思います。何に直面するのか関係なく、最初の一念は師父を思い、自我を放下し、すべてを師父にお任せ、師父の言う通りにし、自分の考えと言動を師父の要求通りに行なうようにするべきです。これはつまり師父を信じ師父を尊敬することであり、すなわち正念でもあります。「弟子正念足りれば 師は回天の力有り」(『洪吟二』<師徒の恩>) 私たちの修煉の道も歩めば歩むほど正しくなり、広くなります。

 「いい事にしても悪いことにしてもそれを感ず、修煉しているから、すべて最高になり、師父の按配に従い、自分の考えを加えず、実は簡単でしょう。大道は至簡至易である(『法輪佛法大圓満法』<功法の特徴>)」。もこの同修と同じ考えです。

 個人の悟りです。合掌!

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2012/1/10/251651.html)     更新日:2012年1月12日
 
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