なぜまだ慈悲の心を修めることができないのか
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   文/中国の大法弟子

 【明慧日本2012年1月11日】 私は漢方医の旧家に生まれました。幼いころから誠実で、嘘をつかず、善良で、善意をもって人と接し、常に他人のことを考えるようにと教育されてきました。私は5人弟妹の一番上で、家訓に従い、常に譲り合って我慢し、争いごとはありませんでした。今まで常人は私を誠実で、善良で正直だと思っており、私も自分のことを真面目だと思っていました。従って、私を悪い人と思っている人を私は快く思っていませんでした。名誉を重んじ、かつては自分の死後に名声を残したい、両親に恥をかかせたくないという気ばかりがありました。修煉後は、その願望を大法に泥を塗らないことに変え、妹や弟に対しても同じ要求をしてきました。

 私が大法の修煉を始めたのは、真・善・忍が人としての道理に合っているという理由からでした。これはまさに私が求めていたものであり、この理念をもって私は大法の修煉を始めました。そこで私は、常に良い人になるよう、心の中の「良い人」の基準を満たすべく行ってきました。私はずっと以前から、大法を修煉して良い人になるには悟性が悪すぎるということや、しっかりとした大法弟子になって師父とともに家に帰り、そして、師父を悲しませないということを認識していました。

 法を深く学ぶにつれ、法理から、大法弟子たちが宇宙の大法の真・善・忍に同化することは使命であり、師が法を正すことを手伝うことや衆生を救うことは、神への道を歩んでいることだとはっきり認識できるようになりました。すでに悟り、三つのこともしっかりと行っているので、この問題はもう存在しないと私は勝手に思い込んでしまいました。私は大法弟子が書いた修煉体験談を読んで驚きました。私は法に照らして深く考えてみました。自分のこのような人としての理念と基準は、根が深く、強固で、徹底的に取り除いていなかったのです。依然として人としての名誉、利益、情などの中で旧勢力に操られるままに修煉していたのです。

 なんと危険なことでしょう! ある意味から、善人も悪人も同じ境界線に立っています。修煉者として、修煉の過程では、宇宙の特性の異なるレベルの最も高い基準の要求の下で、絶えず心性を向上させ、さらに高い生命のレベルに達するべきで、このような完璧な人になろうとする理念は、自分の本性を蘇らすことを制限するための硬い殻でしかないのです。(同修の言葉によれば)自分を根本的に神に変えさせないのです。

 私は常に自分はなぜ慈悲心を修めることができていないのか、なぜそのようなレベルに達することができないのかを考えていました。法を学んでも心に入らないのは、常人という硬い殻の中で法を学び、心を修めているからです。このような状態でどうして向上することができるでしょうか? 常人の善良と修煉者の慈悲のレベルは違うということ、そして、善良は情や私心から逃れられないことを今やっと悟ることができました。ただ表面上では善良な心をもって良いことをしているのです。常人の「無私」も私に含まれていて、ただ量の多少だけなのです。慈悲は修煉を基準まで到達させることができ、それは無私で完全に他人のため根本的質的に変わるのです。境地はとても広大です。衆生を救うことの責任感と使命感は超常的で、神聖であり、これは人と神の差なのです。

 私はなぜ自分の人としての理念で他人に要求するのでしょうか? 「悪人」を憎み、遠ざけ、なぜ、度量がこれほど狭いのでしょうか? これは私利私心を根本から取り除いていないためであり、このような心で寛容になることはできないのです。

 高尚で完璧、人と和気藹々に接すること、愛護することなどを追求することは、いわゆる良い人の群れの中で自分の名誉や利益、情を維持するためです。

 常人の憧れや追求は、表面から見ても求めていることを意味しています。この願望をかなえるために修煉することは、執着を意味しています。十何年も修煉してきたにもかかわらず、私は依然として本質的な利益を手放さず、修煉当初の目的を根本から変えていません。これは修煉者としてとても危険で、悲しむべきことです。

 師父は以前に指摘されました。「もし修煉者が表面では放下しているだけで、内心ではまだ何かを守り固守していて、自分の最も本質的な利益が傷つかれないようにしていれば、皆さんに教えますが、これは偽りの修煉です!」(『北米第一回法会での説法』)

 私は法を学んでも理解できず、心に入らず、内を向けて探しても法の中に溶け込むことができませんでした。名誉心、顕示心、安逸心などの人心を徹底的に放棄していなければ、慈悲心を修めることなどできるはずがありません。すべて放棄すべきです。常人固有のものを私は何一つ放棄していませんでした。私は人に対する執着を徹底的に放棄しなければなりません。

 師父は何度も私たちに説かれました。「私は純朴で足が地に着いた人が好きです。皆さんに長年の修煉を通じて、正しい面で知恵を増やしてほしいのですが、処世術、人となることに関して多く収穫してほしくありません」(『2010年ニューヨーク法会での説法』)師父のこの法は私に対しておっしゃっているのです。私に着実に精進して修煉するようにおっしゃっているのです。時間は待ってくれません。

 これは私が体験して得た僅かな認識です。法に沿っていない所がありましたら、慈悲なるご指摘をお願いします。

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2011/4/3/238472.html)     更新日:2012年1月13日
 
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