情について
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 【明慧日本201234日】大法弟子の書いた修煉体験の中に、情欲を取り除くことに関する交流文章をよく見ますので、同修の修煉は大変ながらも、修煉ができていると感じています。ある10年以上修練している同修は私と交流した時、このように話しました。「修煉は常に人心を取り除くものですが、残っているのは人心だらけで修煉は本当に難しいです」大法弟子の修煉が、これまでの修煉のいかなる形式とも異なっている点は、直接主元神を修めているところにあります。法を師とみなして人心に気付き、それを取り除こうとする時、功には自らこれらの良くない物質を取り除く働きがあります。加えて、師父が常に私達の修煉を見守ってくださっているので、人心を取り除こうとする私達の努力見て、物質を取り除いてくださるのです。肝心なのは、私達がこの発見され、かつ取り除くべき人心を取り除こうとする意志が強いかどうかなのです。意志が強くなければ、繰り返し同じ状態が起きます。良くない色欲や人心と観念は私達の本当の主元神の考えではないのです。これらは輪廻転生する中で汚染されたものであり、大法弟子として持つべきものではないのです。

 宇宙の構造から言えば、三界の中の「情」という神が人間をコントロールしています。もし大法弟子が情、欲(生老病死も含む)などのものを自分の一部とみなしてしまえば、情の神も自ずと、この修煉者をコントロールするようになり、その時の修煉者は常人の状態になります。もし精進している大法弟子が、理性的に情、欲、色欲、などは自分に属しておらず、そのため情の神にコントロールされるべきでないとはっきり理解していれば、情という神が作り出す状態を客観的に見ることができるようになります。すなわち、修煉者にとって情は、大法弟子とは関係のないものだとわかってきます。そうすれば修煉者はもっと、衆生を救い済度することに集中できるようになります。

 以上は個人の認識に過ぎませんので、参考になればと思います。

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2012/2/29/253629.html)     更新日:2012年3月5日
 
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