「通常を超える」ことこそ、大法弟子にとって正常な状態
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文/中国の大法弟子 宇軒

 【明慧日本2012526日】「人間と神の区別は一念の違いによる道理を知っている私たちは、多くの時に「奇跡」を起こすことができません。頭に刻まれた常人の道理によって先天の本性が遮られ、先天の能力も抑えられています。「人」の念に縛られていては、当然大法の超常を見せることはできないのです。

 『転法輪』に「物事の善し悪しは人間の一念によるものであり、その一念の違いによって異なる結果がもたらされることがある」と書かれています。学生が百点を成績の目標にして、その目標のために努力をすれば、百点を達成する可能性は高いのです。もし彼が百点を求める気が全然なく、60点でよいと思うなら、恐らく60点も取れないでしょう。また、修煉者の生活を例にすると、最低限食べていけるならよいと思う同修は、金銭に困ることが多いのではありませんか。

 一方、「大法を学ぶ人は福に恵まれる」と信じる同修は、かえって多くの収入を得て、また想定外のお金も入ってくるかもしれません。私自身を例にして考えてみれば、私は正式な学校などに勤めず、自宅で英語教室を開いています。自分の仕事は教員のように時間に束縛されることがなく、収入も悪くないと私はかたく信じています。結局、私の予想どおり、私の教室に通う生徒は多くもなく少なくもなく、私は真面目に生徒に教えて、生徒たちも良い成績を挙げています。私の収入は学校に勤める教師より多く、仕事以外に「三つのこと」をする時間も十分あり、働いている同修たちに羨ましがられています。

 大法の法理からかけ離れることなく、高い基準で自分の心性を律するならば、修煉者は自分の生活や他のことに関して、適切に良い結果を想定してよいと私は思います。良い結果を収めれば、常人に大法の素晴らしさを見せることができ、衆生の救い済度に有利です。一方、良い結果を収めると、逆に私たちも大法に対して更にかたく信じるようになるのではありませんか。

 「通常を超える」結果が現れるかどうかは、大法をどれほど信じているかによって変わります。何の疑いもなくかたく信じるほど、良い結果を得やすいのです。私は日常生活の中でもよく「超常的な」思いを動かして、多くの場合、とても良い効果を収めています。やる前に私はまず大法を基準にして判断し、いったん達成したい目標を決めると、迷いも疑いもなく行動して、結果は本当に私の予想どおりになるのです。常人から見て不可能に近いことでも、私はやり遂げることができますので、常人もそのような大法弟子である私に感服して、大法をもっと尊敬するようになります。時には、同修さえ驚くのですが、しかしそれは当然のことだと私は思います、大法弟子は俗世間に下りた神であり、ただ普通に一念を出せば、必ず常人より良くできるのです。

 例を挙げて説明しますと、迫害のために戸籍を持たない私は、よく警官に嫌がらせをされるので、今の居住地で戸籍を取ろうと決心しました。しかし私は現地で生まれたのでなく、地方から移住して来た人間なので、戸籍登録をするためには現地に不動産を持たなければならないと教えられました。しかし、今買った家は5回もの転買を経てようやく私のものになったため、関連の規定によれば、不動産の所有権証明書を手に入れたいのなら、私は5回の交易税、計1万元以上(約14万円相当)を納めなければならないのです。「こんな規定はまったくのでたらめだ、絶対払うわけにはいかない」と、私は一念を固めました。結局、とてもスムーズに不動産の初代の買い主にたどり着くことができ、彼と売買合意書を結んで、私は順調に所有権証明書を手に入れることができ、あのでたらめな1万元を納入せずに済みました。

 しかし不動産局に着きますと、また面倒なことに遭いました。所有権証明書に記載された元持ち主の名前と当初登録されていた名前が一致していません。関連の規定によれば、これは書類の改ざんにあたるもので、手続きをするどころか、私はたくさんの罰金を払わなければなりません。筆跡照合をした後、彼らも私が書類を改ざんしたとは言いませんが、それでも規定どおりに私に罰金を科すと言い出しました。私はすぐさま「またでたらめな規定だ、絶対罰金を払わない」と一念を固めました。

 結局奇跡が起きました。午後、すぐ来てくださいと不動産局の職員から電話がかかってきて、私が行くと、職員全員が「あなたは、本当に運がいいね」と言ってくれました。一体どんなことかと聞くと、 定年退職を控えている局長は、今日最後の出勤日で、私の案件を聞いて、局長は「もうすぐ退職して、やっと共産党に左右されることがなくなるのだ。それなら、今日は慣例を破って自分も徳を積もう」と言って、私の案件を例外扱いにする指示を出したそうです。結局、私は罰金を取られなかっただけでなく、証明書も通常の費用よりずっと安い手数料で取得しました。同修たちは非常に不思議に思い、常人も羨んで法輪功を修煉したおかげだと感服しています。

 先日、刑務所に収容されている同修を救出するために、私はある地域の警察・検察・裁判所に向けて大量に法輪功真相を伝えるショートメッセージを送っていました。ある日、送信の真っ最中に突然、私の携帯電話は公安局の監視システムに検出されて、停止しました。仕方なくあきらめた途端、公安局が私のカードを停止することができのなら、私も公安局の監視システムを遮断することができる、と思いつきました。そこで、私は公安局の監視機能を遮断するように発正念をして、数分後、携帯電話を開けると、奇跡が起きたのです。なんとメッセージを送れるようになりました! もし私が「遮断されること」を認めれば、きっとメッセージを送れなくなり、同修の救援も遅くなるので、邪悪きっと喜んだことでしょう。

 しかし多くの場合、私たちの消極的な考えは、本来良い結果になるべき事を一般のレベルに落としてしまいました。一部の修煉者は常人のレベルを越えるどころか、最も基本的な衣食住の問題も解決できず、常人に差別されています。修煉者自身が生活水準に対して明確な希望がなく、あっても達成できる自信がなければ、生活が良くなるはずはないでしょう。それなら、どうやって周りに大法の素晴らしさを実証できるでしょうか。

 あくまでも私個人の体得ですが、大法を学ぶこと自体は福であり、学習者に福をもたらすことができます。そして、心性が高まるに従って、大法弟子は多くの面において一般人より優れるのは当然のことです。家庭でも仕事でも、大法弟子は常人より良い家庭もしくは良い仕事を持つことは当たり前のことで、これは大法の威徳です。私たちはそれをはっきりと意識して、自身をきちんと修めれば、必然的にそうなるはずですが、そうなっていないのは、私たちの認識が歪んでいるからです。

 『転法輪』に「実は物質と精神は同一のものです」と説かれています。高い心性を持てば、良い生活環境に恵まれるのは当然です。もし心性をずっと高い水準に保つことができれば、それに相応して生活環境も安定的に良いレベルになり、常人から見て「通常を超える」の良いレベルを保つことができるはずです。私はここで修煉者の能力が如何に大きいかを吹聴しているのでなく、世間の人々に大法の素晴らしさを教えているだけで、目的はより良く衆生を救い済度するためです。

 もしいつになっても自分の「常人的」な状態を正常だと思うなら、常人から神になることはできないでしょう。大法弟子は常に、神としての念を持つべきです。そうすれば最大限に常人の状態に符合して修煉しながら、複雑な現実の中でごく自然に大法修煉者が一般人との違いを周りに伝えることができます。どれほど「通常を超える」ことができるかは、修煉者がどれほど大法を理解しているか、どれほど大法に同化したかの反映ではありませんか

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2011/11/22/249687.html)
(English: http://www.clearwisdom.net/html/articles/2012/3/6/131929.html)     更新日:2012年5月27日
 
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