文/中国の大法弟子
【明慧日本2012年5月12日】私は1998年に大法を得た弟子で、今年23歳です。修煉の道に、勇猛精進した時期もあり、常人の名、利、情に動じられて苦労した時期もありました。しかし、いずれにせよ、大法弟子として正法の進展に着いていくことができ、今日まで歩んで来られたことを幸運に思っています。
法輪大法は私にたくさん、たくさんの良いものを与えてくださいました。仕事の中で、私は自分に厳しく律して同僚と争ったりしませんが、いつも最も良い業績を挙げています。他の人が手を付けたくない汚い仕事、辛い仕事を私は奮ってやって、同僚たちに好かれています。もちろん私は彼らに「三退」を勧めています。どんなに忙しくても、夜の集団学法には必ず参加して、テレビも全然見ないしネットサーフィンもしません。時に同僚たちは「あなたは毎日仕事が終わってから遊びもせずテレビも見ないで、いったい何をしているのか? あなたと同じように生活すれば、私はきっとつまらなくて仕方ない」と言います。私はいつもニコニコして、私にも私の楽しい生活スタイルがあると返事します。
私自身は本当に充実した生活を送っていると思います。私の生活の中身はとても有意義で、どんな事でも気にかけず、心の中に常人の良くない考えを一つも入れず、リラックスして楽しく生きています。
一方、私は修煉の関を乗り越えられない時もあります。私を厳しく見守っている母(同修)が、学法や煉功について、くどくどと言ってくる時、私は嫌になります。私の修煉の次元はきっと母より低いですが、母はいつも自分の基準で私を要求しているため、私にプレッシャーをかけているとばかり考えて、外に向けて探します。それから母は私と交流して、「厳しいことばかりを言って、あなたが受け入れられるかを考慮していない」と謝ってくれました。私も内に向けて探してみたら、自分の多くの不足点に気付きました。つまり、母に督促されると息が苦しくなるのは、自分自身に問題があるからです。言われない時、自分もちゃんと精進しているのに、督促されるとかえってやりたくなくなるのは、常人の反抗心理ではありませんか? 母が2回以上督促すると、私は怒って母に大声で叫ぶのは魔性ではありませんか? 疲れた時に朝起きられなくて煉功を怠るのは、安逸心ではありませんか? また、「自分は母より修煉の次元が低い」など大法から離れた話をしていました。それでは、厳しく自分を律して母と同じ次元に到達するように努力すれば良いのではありませんか? また、私は真相をよく伝えておらず、伝えた対象は周囲の仲の良い人だけに限っています。
ある日、ある中年女性が私の勤める店で服を買っていました。彼女は小さい声で私に「お嬢ちゃん、『三退』して平安を保つことを聞いたことがある?」と話しかけてきました。一瞬、私は呆然となって、自分が良く真相を伝えていないことを恥ずかしく思いました。私は頭を下げて「私も大法弟子だ」と言いました。彼女はとても嬉しくて、「そうなのか、良かった! 素敵なお嬢ちゃんね、素敵だね」と話しました。「素敵だね」を連発されて、私は強く心打たれました。そうですね。今日、大法弟子になれた私は素敵ですね。今日、師に助けて法を正すことができる私は、素敵で幸運ですね。
『明慧週刊』を読んだ時、「人間として生まれること、中国に生まれること、大法に出会うことはとてもあり難いことだ」の一言を覚えました。今日、私はその三つの条件を揃えているのに、また精進しない理由はありますか? 「三つのこと」をしっかりやらない理由がありますか?
たくさんの若い大法弟子は佛性を常人の中の名、利、情に埋められて、天上の家に戻る道を忘れました。また、若い大法弟子は常人ののんびりした生活、男女の愛、幸せな家庭などに惹かれやすいのです。私はそれをすべて経験したことがあり、一時期、恋愛問題に悩まされて、疲れきって学法と煉功も中止していました。最終的に、大法に対する正念、同修の無私な助けのおかげで、私は再び大法修煉に戻りました。情は最も汚く最も良くない物質で、必ず切り捨てなければならないものだと、私はやっと分かりました。常人社会の道理は宇宙の法理と正反対なので、情は私達を戸惑わせて、天上の家に戻る道を忘れさせる物質そのものです。
小弟子たちは幼い時、いつも大法弟子と一緒にいたため、常人に汚染されておらず、とても清浄だったのです。大きくなってから、仕事や自分の家庭も持つことで、毎日常人の環境に漬かっています。漬かっていても清浄さを保つことができれば、はじめて師父に済度される資格を持つのです。私達はかつて、大きな危険を冒してこの世に下りて、師父と縁を結んだのは、ただ今日、師に助けて法を正すためです。
時には、私は1999年の迫害が始まる前のことを思い出します。私達小弟子は毎日、朝早く大人たちと一緒に公園で煉功をして、どんなに寒くても誰もが手を下ろしたりしません。1999年7月以降、小弟子たちは学校においても迫害を受けていました。半月にわたり教室に入ることを禁じられても、罵倒されて体罰を加えられても、学校を退学処分にされても、私達は屈服しませんでした。親たちが捕まって、家に私達5人の小弟子だけが残された時でも、5人が会ったら一緒に学法と煉功を続けていました。当時、私達の年齢は8歳から12歳まででした。当時のことを思い出しても、私達は本当に後悔していません。私達は師父と大法を堅く信じていたからです。
大きくなった今日の私達よ、どうして精進を忘れたのでしょうか? 私と同じような昔の大法小弟子よ、目を覚めましょう。私達は誓約を背負って千万年の昔から今日を待っていました。私たちは重任を担う大法弟子です。末劫の時期に、雑踏の中で、宇宙の大法を得て李洪志師父の弟子になれたのは、どれほどの幸運と誇りでしょう! 私達は決して道を見失ってはいけません!
以上はただ個人の体得に過ぎず、不適切なところ、同修の慈悲なるご叱正を仰ぎます。最後に師父の『洪吟二』「断つ 元曲」をここに書きだして、皆と私自身を励ましたいと思います。
「修難からず
心去り難し
幾多の執着は何時に断つ
皆も知る苦海総て岸無しを
意堅からざれば
関は山に似て
如何にして凡を出づ」
(明慧ネット第8回中国大陸の大法弟子修煉体験交流会)
(English: http://www.clearwisdom.net/html/articles/2012/1/7/130562.html) 更新日:2012年5月14日