文/中国広東省 浄蓮口述、同修整理
【明慧日本2012年7月19日】
ドキドキ、ハラハラの体験
1999年「7.20」の後は、しばらく北京にいました。毎日天安門広場に行くのが楽しみで、煉功している修煉者を見つけるとすぐ参加しました。人数が多ければ一体感を感じることができるからです。
12月になると同修達と一緒に天安門広場に行き、テープレコーダーで音楽を流しながら煉功しました。とても壮観でした。
北京にいる間に十数回連行されました。しかし毎回容易に脱出する事ができました。私がいたある刑務所では門の回りに見張りの警官が立っていたので、夜寝ないようにして門番の警官を観察していました。門は内側から開けるようになっており外からは開けられません。夜になると警官はうとうとすることが多く、ある日こっそり門を開けて脱出に成功しました。他の寝ていない大法弟子も後に付いて急いで外へ逃げ出しました。しかし逃げ切れない大法弟子もいて、目を覚ました警官に再び捕まってしまいました。
ある時、私は拘束され警官が私の前を歩いていた時、タクシーがそばを通るタイミングを見計らって急いで乗り込みました。「助けて! 私は被害者です」と簡単に事情を説明したら、タクシーはすぐ私を乗せてその場を走り去りました。また、連行されてもすぐに釈放されることが何回もありました。またある時、警官が私を深センに追放しようとして空港に向かう途中、2キロの揚げそらまめを買って逃げられないように私に持たせました。途中のある場所で空港の標識が見えた途端、「師父、逃げたいので助けてください」と内心でお願いしながら、そらまめを抱えたまま猛ダッシュで逃げました。
断食
2000年に北京で連行されました。娘に迎えに来てくれるように頼んでおきましたが、なかなか娘の姿が見えませんでした。師父は断食するようにご教示くださいました。当時捕まえられた大法弟子は同じ刑務所に100人以上が収容されており、たくさんの大法弟子が断食して抗議していました。当時の心性はそれ程高くなかった為、お弁当を一つもらってきて、「師父、食べないともったいないです。こんな美味しそうなお弁当が捨てられたらもったいないです。食べ終わってから断食します」と話しながら食べました。それから水も食事も一切取らない断食を1週間続けましたが、体は軽やかでとても調子が良かったのです。そのため他の同修にも断食を勧めました。
最終的に各省は管轄内の公民を連れて帰りました。警官は「あなたは広州に帰りなさい」と私に言いました。深センの家を数十万元で売却したので、北京や色々な所を回れるお金を持っていると知っていたからです。私は強制的に広州行きの飛行機に乗せられ護送されました。
その時、師父は断食をやめるようにご教示くださいました。「師父、断食はとても調子が良かったですよ。これからずっとご飯を食べないで済むから食糧の節約にもつながります」と師父に話しかけました。その日の煉功は手がだるくて上に挙げられませんでした。今までにないような辛さでした。何とか歯を食いしばって手を挙げたまま「師父、心性をきちんと修めていないところがあります」と反省しました。よく探してみたら、やはり断食に問題あると悟りました。「師父、私は断食をやめます。法輪大法の修煉に断食は入っていませんから」と言った途端に手が軽くなりました。また断食のタイミングについて師父に尋ねてみましたが、師父は黙っておられました。「恐らく飛行機に乗る時、機内食があるから断食できない」と考えました。その時、師父は私の頭を軽く押えられたので私はすぐ理解しました。
自ら苦を求める
広州に着くと私はすぐ釈放され、あちこちの同修を訪ねて交流しました。2000年の初めに曁南(きなん)大学講師の高献民さんが迫害を受けて死亡した情報が耳に入り、大きなショックを受けました。高さんは1.8メートル以上もある立派な体格でした。同修は迫害、断食、灌食の拷問と、死に至った経緯を話してくれました。その時「他の同修はあんな酷い苦難を受けて、今回は私の番だ」と思い、まるで刑務所での服役が真に大法を守ることのようでした。私は他の空間で師父が苦難に耐えておられるのを見ているので、「自ら業を消します。師父にこれ以上負担を掛けてはなりません」と自ら苦を求めました。これらの思いは全て法からかけ離れていたので、結果的に魔難を招いてしまいました。
師父が発表された「心自明」
「7.20」後の約1年間は、師父の消息がありませんでした。しかし偽の経文が出回っていました。2000年5月22日に迫害されて以来、師父は初めての経文、「心自明」を発表されました。私はそれを読んだ後、やっと本物と偽物を見分けることができました。パソコンを持っている同修に誘われて、初めて明慧のホームページで師父の経文を確認しました。「師父、私は間違えました。師父に失礼な事をしました。私はきっと落ちてしまったのですね」と心が揺れると、師父が次のように他の空間の場面を見せてくださいました。
師父の乗っておられる大きな船が先行して、私達弟子は一人一艘の小さな船に乗って師父の後に付いていました。続々とずっと遠くまで大変壮大な列が続きました。ずっと後ろの方には遅れている同修もいれば、脱落する同修もいました。その時、山を押しのけ海を覆すかのような大波が来ました。「しっかり摑まって」と師父が注意されたので、私は慌てて船を摑まえ直しました。暫くして1人の同修があまりにも後ろに遅れているので、「あの同修は付いて来られなくて随分遠くなってしまいました」と言うと、慈悲なる師父はフックの付いたとても長い縄を投げてパッと彼を引っ掛けて引っ張られました。それから私も遅れている同修を見かけると、置いていかれないように前へ引っ張りました。風がビュービュー吹いていました。
拉致される
2000年夏、私はまた汽車のチケットを購入しました。苦を求めて北京に行きたいと思いました。しかし広州駅で捕まりました。どこから来たかと聞かれて、私は沈黙をもって抗議しました。そうすると彼らは私の鞄の中から電話帳を見つけました。電話番号を見て、私が自分達と同じように鉄道関係者の家族だと分かると、「法輪功修煉者は悪い人ではないが、上からの命令なので仕方がない。あなたは早くここから離れなさい」と言いました。離れようとしない私を見て、彼らは電話帳をめくり始めました。最初1人のクラスメートに迎えに来てもらうように電話をしてみましたが、しかしクラスメートは怖がって断りました。それから母親に電話したところ、もう夜の遅い時間なので翌日行くということでしたが、翌日母親が来た時、私は深センの公安に連行された後でした。師父は恐らく、どうしても苦を求めたい私を見られて、仕方なく決められたのだと思います。
広州駅で一晩拘禁された翌朝、刑務所の門が開くと同時に「行け! 行け!」という声が聞こえてきました。すぐ行かせてもらえずに、鉄道の公安は「よく考えて決めてね。本当に行くのか?」と私に何度も確認しました。「家に帰らない」という私の固い決意を聞いて「それなら深センの公安に連れて行ってもらうよ」と鉄道の公安は最後に念をして言いました。「いいよ、いいよ、」と再びはっきり答えました。彼らは「わざわざそんな苦労しなくてもいいのに、私達でさえ忍びない気持ちだ」と残念そうに言いました。私は深センの公安に深センまで連れ戻されました。何度も出入りしているので「また会えたね」ともう顔見知りになっていました。彼らは「どうなっているの? いつも走り回ってあちこちで厄介な事を起こしているので、今回は本当に酷い目に遭わせてやる」と言い放ちました。
(続く)
(明慧ネット第8回中国大陸大法弟子の修煉体験交流会)
(English: http://www.clearwisdom.net/html/articles/2011/11/21/129610.html)