資料拠点での同修の食事メニュー
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2014年10月13日】梅さん(仮名)は地元の協調人です。ある日、梅さんを捕まえようと自宅の前に二台のパトカーが来ました。危険が迫る中で警察官が見えないように師父にご加護を求めました。そうして、警察官の目から逃れることができました。それから梅さんは地元を離れ、異郷での生活を始めました。その時、梅さんは1万元ほどしか持っておらず、全く知らない都市で、マンションの屋上の角部屋を借りて、パソコンとプリンタを買って、大法の真相資料を作り始めました。

 最初の頃、梅さんは自分で資料を作成して、一人で資料を貼りに行っていましたが、その後地元の一人の同修に出会うことができ、梅さんはその地域のもっと広い範囲での資料作成を任されました。資料拠点の安全のため、梅さんは毎週金曜日に資料を受け取りに来るこの同修だけと会っていました。他の時間はずっと部屋に閉じこもっていました。私が梅さんにインタビューして、「その頃の生活は辛かったですか?」と聞くと、彼女は、「そうですね、辛かったですよ。お金を節約するため、炊飯器だけを買いました。料理用のヘラまで買えませんでした。一回ご飯を炊いたら、何日も食べていました。冷めたら温め、何回も繰り返し、最後めちゃくちゃになっても食べていました。おかずを買うことが全然できませんでした。人に飼われている犬ほども食べていませんでした」

 私が「漬物も買えませんでしたか?」と聞くと、「漬物? たまに買いました。何日かに一回豆腐を買って、鍋で煮込んで食べましたが、私にとって贅沢な料理でした。ペットボトル一本の油を買ったら、1年間食べても、まだ少し残っていました」。「小麦はどうやって食べていましたか?」と聞くと、「麺類料理を食べるのはもっと簡単でした。炊飯器に水を入れて、小麦も入れて混ぜて、トロトロになったら食べていました」。梅さんが住んでいた角部屋は10平米もなく、夏になったら蒸し暑く、冬になったら手足が痺れるほど寒かったのです。大家のおばあちゃんは、2、3日経ったら、水道水を使いすぎとか、電気を使いすぎなど、いろいろ文句を言いに来ましたが、梅さんはいつも笑顔で謝っていました。だんだん、大家さんも梅さんがいい人だと思ってくれるようになりました。

 ある日外出した時、西瓜を売る店の前を通りました、500gを0.4元で売っていました。何年も食べていなかった梅さんは、西瓜を食べたくなりましたが、財布のお金を考え、離れました。「このお金は同修達が資料拠点のために集めた、衆生を救うためのお金なので、贅沢をしてはいけない!」と思いました。

 一度、資料を受け取りに来た同修が揚げパン2本を買ってくれて、少し残っていました。しかし、2日経ったら、カビが生えたと気付きました。しかも酷いカビでした。食べるか、食べないか迷いましたが、食べると決めました。こんな環境の中でこだわる余裕がない、生きていければいいと思っていました。梅さんは、「そのときの揚げパンは木の枝みたいな感じで、喉を通った時に辛くて、呑み込むのが難しかったです」と言いました。「そんなに辛かったのに、どうして同修達に助けを頼まなかったのですか」と言うと、「頼めなかったのです。彼らもきっと楽ではありません。あの頃は迫害がとても酷かったので、同修達は不当連行されることが度々ありましたので、個人の生活の困難くらいはたいしたことではありませんでした。同修達に迷惑をかけたくなかったのです」

 梅さんは女性の同修であり、1人で5年の間、異郷で生活しました。5年間、お正月の餃子を一度も食べたことがありませんでした。ある年、彼女は大家さんの家族が正月料理を食べていたのを見て、会ったら疑われる恐れがあると思い、外に出ていました。外は小雨が降っており、爆竹の音と御馳走の匂いが溢れていました。人々は皆お正月のために急いでいました。梅さんは串揚の屋台がまだやっているのを見て、1元で豆腐団子の串揚1本を買って、お正月のご馳走にしました。

 ちょうどその時、娘さんが公衆電話から電話をかけて来ました。

 「お母さん、今日はお正月なので、餃子を食べた?」と聞かれました。「食べた、食べた」と答えながら、涙が流れました。「お母さん、いつ帰ってくるの? 会いたいよ」という娘の言葉は、梅さんにとって最も辛い言葉でしたが、いつも、「お母さんはきっと帰るよ。お父さんの言うことをちゃんと聞いてね……」と言っていました。娘さんとの電話が終わると、手に握っていた串揚はもう凍っていました。

 梅さんは、「最も辛いことは、食べ物ではなく、寂しさでした。私は5日に一度しか同修に会えませんでした。その時の資料拠点はシングルラインの連絡でした。安全のために、毎週資料を受け取りに来る同修と一回会う以外に、他の時間はほとんど部屋に閉じこもっていました。寂しさに耐えられないとき、法を学びました。「あの数年間、私は師父の『轉法輪』及び海外での説法を全て暗記しました。毎日資料を作る以外に、法を暗記することで、ときには一日3講も暗記できました」

 梅さんの生活の一部を紹介したのは、師父の威徳を実証するためです。師父の弟子しかここまでの苦労を経験しながら衆生を救うことはできません。法に作られた生命でしかこんなに涙を流させ、心を震撼させる波瀾万丈の物語を作ることができません。

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2014/9/22/298001.html)
 
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