自我を取り除き 大法に同化する
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文/中国の大法弟子

明慧日本2015年7月17日】

 私の職業は翻訳です、吉林大学卒業後、国費留学したこともありました。1999年3月頃、私は25歳になった時に法輪大法の修煉を始めました。十数年の修煉の過程の中でだんだん自分中心の心を取り除き、心の深いところまで「法輪大法素晴らしい」と深く感じています。

一、神様に助けられた

 私は幼い頃から不運の持ち主です、街で歩いたらレンガに頭を打たれ、教室で座って授業を受けるところに飛んで来たサッカーボールで割れたガラスの破片で顔がケガした、窓ガラスの拭き掃除したら、窓台から落ち、家にいる時は大人に理由もなく怒鳴られたり、殴られ、体が弱くよく風を引いたり、熱を出したりしていました、虫歯が多く常に激痛に悩まされ、物を盗まれたり、騙されたり、交通事故に遭ったり、強盗にも遭いました。また持病も多く:片頭痛、慢性鼻炎、咽頭炎、胃炎、生理痛、肝炎、先天性脾臓肥大、外傷性関節炎など、とにかく、足のつま先から頭まで良い場所はありませんでした。まだ若いのに、苦痛の連続で、生き甲斐を感じられませんでした。

   初めて『転法輪』を手に取った時に、私は既に四十日余り本も読めないぐらい体力が弱まっていましたが、この本だけ文字が大きくくっきり読めました、読めば読むほど目が気持ちよく感じました、まるで眼玉が見えない糸に引っ張られ、一行また一行と続いて読んでいました。不思議な感じを覚えました。「常人社会に来ている間は、ちょうどホテルに泊まるようなもので、しばらく滞在したら、たちまち去っていくと言われます。ところがこんな場所に未練がありすぎて、自分の家を忘れてしまっている人がどうしてもいるものです。」まで読んだ時に、遥か遠い記憶が蘇ったように心が打たれた感じがしました。私は三日間をかけて『転法輪』を読み終えた後、ベットからおり、煉功できるまで回復し、しかも天耳通の功能(他の空間の音が聞こえる功能)が現れました。

 私は二冊目の大法の書籍、『米国法会での説法』を読みました。すると、波が押し寄せるように、自分の考えが開けてきました。奥深い法理に感銘し、それから、食べるのも寝るのも忘れるほど、学法と修煉に精進しました。大法の不思議さを私の身に絶えず現れました。 

 煉功してから間もなく、私の体のいろいろな不具合が全部消え、体も軽くなり、顔色も赤みがさし、同僚たちも私がきれいになった変化に驚きました。私は幼い頃から胃腸の調子が悪く、煉功をしてからも周期的に体が調整されました。煉功をして7カ月目のある日、たくさんの黒ずんだ血を吐きました。非常に恐ろしい状態でしたが、その後は胃腸の調子が完全に治りました。交通事故に遭ったこともあり、私の右足のくるぶしの周辺の靭帯が全て壊死してしまい、少し歩くと足が痛くなりました。ちょうど第五式の座禅でこの箇所が引っぱられ、死ぬほど痛かったのです。しかし私は毎日、その痛みに耐え、自分の限界まで耐えました。このようにして、1年間が経って、足の部分は完全に治りました。

 たくさん学法するにつれて、大法の不思議さがどんどん現れました。最初は心の中は不安なぐらい静かでした。その後は不安がなくなり、殊勝な状態が現れました。慈悲心が現れた時は、心の中に光が満ちて明るく、限りなく広くなりました。これは「慈悲」の二文字から感じ取った体験です。清浄心が現れてきた、一種の清らかさ、喜びを感じました。たとえ何もしなくても、一人でいても、寂しくなく楽しい感じを覚えました。また、無為の状態では、無我の状態で、「法の中に溶け込み」[2]、本当に感じ取れる状態であって、体の全ての細胞が法に溶け込み、喜びを感じて、シャワーを浴びたような気持ちよさを感じました。つまり、大法の現れは、表面的には師父の説法と文字ですが、私はこの法の中の一言、一文字、全て真実の次元に相応していると信じており、修煉者はただ広い海の一滴の水のようなものしか感じ取れません。

 大法の修煉によって、仕事においても恩恵を受けました。煉功をしてから、頭脳明晰になり、意識もはっきりとして雑念がなくなり、翻訳の仕事も非常に順調にこなしました。時には外国語のほうが中国語よりも上手に話せました。2000年、外資の企業が倒産して、私は自分から仕事を探してはいませんでしたが、他の企業に毎月6千元の高い給料で雇われました。その後、何度も迫害されましたが、牢獄に入れられない限り、全て大法が私に授けてくださった能力で、自分で生計を立てていました。一時期、6年間、一言も外国語を使っていませんでしたが、奇跡的に企業に内定をもらい、高い給料で待遇の良い仕事が見つかりました。

 先日、私は一つの翻訳の仕事を受けましたが、仕事で行った裁判所で真相を伝え、離れた地区の同修の家でパソコンの修理をしてあげて、しかも他の仕事もこなしましたが、最後に二晩で翻訳の仕事をこなしました。最初の1日目は4時間しか睡眠が取れませんでしたが、1万2千字の翻訳を終えました。少し休憩した後、残りの5千字の翻訳を終え、予定通り原稿を提出しました。どの言語の翻訳の仕事も、1日5〜6千字翻訳できれば多いほうですが、1万字以上の翻訳は誰もが想像できないほど多いのですが、大法の修煉の中では、神に助けられたように奇跡が起きるのです。

二、洪大な師父の恩

 大法を学び始めた最初のころ、私はよく涙が自然に流れ出ていました。私は元々の常人の次元から、大法の修煉に入る段階で、師父は私のためにたくさん身代わりしてくださったと感じました。

 朝の煉功が終わってから、まだ夜が明けていないうちに、町を歩いていると、車がものすごい勢いで、私のすぐそばを通り過ぎました。その道は、車道と自転車道の間に植え込みがあるのです。近くにいた同修たちは皆、驚いていましたが、私は何も感じませんでした。おそらく、命を取りに来たのだと思いましたが、師父が私を守ってくださったので、車にひかれませんでした。

 当時、私が住んでいる寮は2人部屋で、学法と煉功はとても不便に感じました。しかしすぐ、その同僚が自分から他の部屋に移り、私は1人部屋になりました。煉功する時、時間になると、耳もとで本物のような鐘の音が鳴り、しばらく経って、自分で時間通りに起きられるようになると、鐘の音は聞こえなくなりました。

 ある日、煉功場所で師父の説法のビデオを放映し、2日間に分けて放映することになりました。私は会長の秘書なので、会長が会社にいる限り、私は先に帰ることはできません。2日間連続で早く帰ることは自分からは言えません。しかしちょうどその日、夕方5時を過ぎると、会長は着替えて、「私は今日、用事で出かけるので一緒に来なくて良い」と言いました。

 またある日の朝、私はふだん学法に励み、睡眠時間が少なすぎたので、少し疲れを感じました。アラームを設定して、少し眠ろうと思いましたが、ちょうど眠りに入ったところで、背中が押されて、目を閉じたままベッドから地面に立ちました。時計を見たら、ちょうど仕事に出かける時間で、アラームを見ると、壊れて針が止まっていました。しかし、私はその日は一日、とても元気よく疲れを感じませんでした。

 またある日、座禅をしていた時、全身に寒気を感じ、激しく震え、とても怖くなりました。震えながら本を開いて、師父にこれはどういうことですか、と心の中で聞きました。その瞬間、私は師父の写真の目が涙に満ちていることに気づきました。その時、温かいものがお腹から出てきて、一瞬で震えが泊まりました。これは、また師父が私の業力を身代わりになって消してくださったと分かりました。

 去年10月1日、中国共産党の政権樹立日の前に、私は家族旅行をせず、別の地域の資料拠点の協調の仕事に行きました。駅に着いたら、祝日のため人混みで、バスのチケットが取れず、仕方なく列車のチケットを買うため長い列の後ろに並びました。しかし、列車のチケットも売り切れたというアナウンスが流
れたため、私は何時でもどこでも良いので、残ったチケットを買おうと思いました。販売機で買ってみると、1時間後の指定席のチケットでした。ちょうど昼食を食べる時間もあったため、世の中にこんな幸運なことがあるのかと思い、感動しました。また師父が私を助けてくださったのだと分かりました。

 十数年間、私は7、8回不当に連行されたことがありましたが、殴られた時に一度も痛みを感じたことはありません。一度、ある派出所で手錠をはめる事に抵抗したら、警官に手首の骨をねじられ、骨がずれました。それでも痛みを感じませんでした。ただ、留置場に入れられた後、重い物を持てなくなったぐらいで、その後は知らないうちに治りました。これも、師父が私のために身代わりになって、治してくださったのだと思います。

 このような事がたくさんありましたが、自分の心が法に符合すれば、どこでもいかなる時も師父が常に弟子たちを加護してくださっていると感じることができます。

 三、自己中心の考えを取り除く

 私は1999年、迫害が始まる前に大法の修煉を始め、しかも最初から表に出て法を実証していました。個人修煉の基礎が弱く、法を正すことも深く理解できませんでした。旧宇宙の生命の変異した悪い習性をもって、やられたらやり返す、邪悪に対して戦わなければならないという常人の考え方で、法を実証する
ことをやっていました。心構えが正しくないので、大法の力が現れていなかったため、挫折も多く、順調に行えませんでした。

 私もひどく落ち込んで困難と苦痛を感じたことがあります。青春をすべて牢獄の中で過ごしました。常人の中のものをほとんど失いましたが、それでも法を実証する目的は達成できませんでした。周囲の人は私に対して、もったいない、理解できないと言って責め立てるばかりで、私から大法の素晴らしさを感じ取ることはできませんでした。私は何度も法の中で答えを探しましたが、法を読んでも、物語を読んでいるかのようで、法は法で、私は私のままでした。全く最初に法を得た時の深く感銘した感じがなくなり、いったいどこに問題があるのか分かりませんでした。

 その後、真相を伝える過程で、私はあることに気づきました。事前によく計画した事は全ていろいろな困難が起き、たくさん発正念をしないと、うまく実行できませんでした。計画の途中でも、不安の要素が多く、効果も良くありませんでした。しかし、事前にあまり準備をしていない事や、出くわした事は非常に順調にこなすことができました。私はだんだんと「自分が修煉したい」ということは、「私」ということから離れていないと気づきました。「私は人を救いたい」「私は真相を伝えたい」「私は・・・をしたい」には全て、私的な目的が混ざっているため、これも旧勢力の按配の一つではないでしょうか? 「私」がこのようにしたい、というのは、法を正す時期の大法弟子が自然に行うことではありません。あるいは、師父と大法の要求に従って行ったことではありません。つまり、目的の出発点は自分ため、私のためなので良い結果が現れないのだと分かりました。

 この「私」の根を掘り起こすと、大きな変化が現れました。心の中が開けて、慈悲と平和に満ちて、学法する時も集中できました。それまでは、法を正すことを行う時に、すぐ効果が現れるとか、あるいは極端に数量や結果を求めてしまう心がありましたが、今はもっと質と自分の心を込めて真剣に行うように気をつけました。以前は、無理やり、しなければいけないという気持ちで学法していましたが、自己中心の執着心を放下した後は、法を実証することや学法、修煉することが楽しみになりました。過去のことも将来のこともこだわらずに大法の仕事を行うことは、食事、睡眠をとるように、自然にこなしています。少し時間があるとやっていますが、できるかできないか、できたかどうか、心の中は全く動じません。もちろん、修煉の中で絶えず自分の頭に現れた考えや「私」の考えに気づけば、すぐにそれを取り除くようにしています。

 私が知っている、非常に精進しているように見える同修たちは、魔難が非常に大きく、この数年間、共産党の迫害による試練の関門を乗り越えましたが、家族や社会に対する心性の関門は乗り越えていません。あまり理性的ではなく、心に深く傷を負ってマイナス思考が多い学習者もいて、迫害によって修煉と反対の立場に立った人もいました。私は彼らが本当に固守しているのは、大法ではなく自分であると思います。修煉の真諦は何と言っても、執着を取り除くことで常人の中のいわゆる「立場を堅持する」ことではありません。漏れなく常人の考えを放下すれば、旧勢力に迫害の口実を与えなくなります。

 私はこのように修煉してきましたので、長い間ずっと魔難に陥り、自分の向上と大法の力を感じ取れないままで、真相を伝えても聞いてくれる人がほとんどおらず、どんな事も順調にいきませんでした。自分の心に恐れる心があると分かっても取り除けない人、あるいは常に消極的で疲れや病業にまとわりつかれている同修は、内に向けて自分に対して強烈な自己中心の考えがあるから、それによって大法に溶け込むことができない可能性があります。自分が行いたいこと、目的の出発点が自分のため、あるいは人のためであるかどうかを考えてみた方が良いと思います。

 以上は個人の体験によって悟ったことであり、全ての学習者には合わないかもしれませんが、適切ではない所があれば、同修の慈悲なるご指摘をお願いします。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『轉法輪
 [2] 李洪志師父の経文:『精進要旨』「法の中に溶け込む」

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2015/6/6/310294p.html)