文/中国の大法弟子
【明慧日本2015年8月3日】中国の伝統文化の中には「互いに助け合う」という文化があり、これは一種の善良の現れと認識されています。常人の中で「互いに助けあう」と、他人から「あなたは良い人だ、思いやりがあるね」と言われます。特に自分が劣悪な環境の中にいるにもかかわらず、まだ他人を助けることができるとしたら、あなたはまわりから称賛を受けるでしょう。ましてや自分の利益を捨ててまで他人を助ける人は、なおさらのことです。
しかし、大法弟子としては、どう行うべきでしょうか? 法理から、私たちは人心を取り除く事と道徳は重要であると分かっています。日常の中で、常に自分を厳しく要求し、口にしたことをやり遂げ、他人には寛容になる、等々できたのは、執着心を放下したあと、心性が向上したの現れでしょう。
大法を学んでから、師父が説法の中で「煉功者は徳を積むことをめざすのではなく、徳を守ることを重んじます」[1]と教えて下さっているように、世間には多くの事に因縁関係が存在し、背後の要素を分からなければ、事を行なうべきかどうかは表面から判断できません。大法弟子はみんなこの理が分かっており、常人に対してどう対処するべきかは、一人ひとりに自分の基準を持っています。しかし「同修」の場合、どのように対処すべきでしょうか?
例をあげますと、地元では経済的に困窮している同修がおり、ある同修が彼女を皆で援助しようと言い出し、皆で彼女にお金や物を送ったり、力を貸したりしました。しかし私はこれは間違いだと思いました。法理から私たちは今生の生活の貧富は輪廻の中で積み重ねた徳の多少により決まられていることを知っています。師父は説法で弟子の質問に「いずれにせよ、自分で経済上のことを解決すべきです。長く他の人からの援助に頼っていれば、それではいけません。」[2] と答えています。多くの業力をすでに師父は消去して下さったので、残る業は自分で返さなければいけません。もし同修の援助に頼って、自分で支払わない、何も償わず、自分で消去すべき業を消去せず、高めるべき心性を高めることもできなければ、援助したことによって返すべきものを返さないようにさせた同修は悪い事をしたことになるのではありませんか? 残念なことにその援助をうけた同修は、病業の中でなくなってしまいました。このような損失がもたらされたのは、まわりの同修たちが彼女を援助したことと関係がないとは言えません。
またこういう大法弟子がいます。自分の子供が結婚する時、実家の招待客が少なければメンツが立たないと、あちこちから同修を呼んで結婚式に参加させました。もし結婚式に参加する人たちに真相を伝えるためなら、またいいのですが、ただ自分のメンツを立たせるためであれば、私はこれは大法弟子の行為ではないと思います。これは人心と人情に他なりません。こういう助けを求めないで下さい。
現在パソコンは社会全体に普及していますが、多くの大法弟子は高齢であったり、あまり学校に通わなかった関係でパソコンを操作できず、学ぼうとする気持ちもありません。そのため、ほかの同修はその同修たちに『明慧週刊』などを明慧ネットからダウンロードしてあげなければなりません。そうすると明慧ネットの情報が、こうしたパソコンを操作できない同修が見ることができるのは、どうしても自ら明慧ネットを見ることのできる同修より遅くなってしまい、ひいては重視されない傾向があります。
数年前、パソコンがまだ普及していなかった時、パソコンを持つ同修は、随時に明慧ネットの情報を他の同修たちに伝えてくれていました。それから真相資料の制作などを勉強して、新しい経文があれば印刷して同修たちに配布してくれていました。ずっとこのような事をしているうちに、同修たちは印刷されたものをもらうことに慣れてきました。いくらかの事を自ら悟り行うべきなのに行わず、他人からどうするかを教えてくれるのを待ち、自分も言う通りにするのです。
江沢民を告訴するブームが起きている現在、地区の大部分の同修たちには依然としてこのような問題があります。自分がやるべき、悟るべき事を協調人に押し付け、指示を待っており、この事は実は自分が修煉していないことになっているのではないでしょうか? 告訴状の作成、印刷などについても、自分に能力があるにも関わらず、自分ができないところだけ手伝ってもらったりするのではなく、全て他の同修に押し付ける人が多くいます。
他人がどうするかは知りませんが、私は、同修が自分のところへやってきたら、明慧ネットからダウンロードした「江沢民告訴」に関係する文章を同修に渡して、必ず一回読むようにさせ、それからどうするかを考えさせるようにしています。告訴状を書こうとする同修がいれば、私は積極的に協力して、ただ本人の考えを尊重し、直すべきところがあれば、なぜそうするのかを教え、もし同修が直したくなければ、同修の考えを尊重しそのままにしておきました。
郵送する時も、私はたとえ年寄りの同修でも、できるだけ同修自身に行わせるようにしています。大法弟子たちに自分の道を自ら歩ませ、悟らせ、行わせるほうが、最も良い事だと確信しているからです。
地区の大部分の同修は協調人を見ており、自ら行わず、また明慧ネットの交流文章も読んでいません。私は焦っています。しかし焦っても仕方がないのです。やはり同修たちが自ら悟って歩みだすのを待つしかないのです。
注:
[1] 李洪志師父の著作:『轉法輪』
[2] 李洪志師父の経文:『二〇〇四年ニューヨーク国際法会での説法』