(全文に続く)
【明慧日本2015年9月21日】
他人のミスを見て、自分を探す
師父が「正しきは彼 過ちは私」[2]と説かれました。私はこのことがよく理解できませんでした。しかし、いくつかの事柄を通して、間違っていたのは自分だと分かるようになりました。
1、仕事で、同修がしっかり行えなかったので、悪い影響、或いは損失をもたらすと、自分がよく行えたとしても、それが良い結果に繋がらないと、後で分かります。例え他人の過ちでも、神から見ると私にも責任があるのではないかと、考えるようになりました。
2、同修と同じプロジェクトで仕事をしたとき、同修がいつもミスをしていました。私はその改善方法が見つけられず、悩んでいました。私が思うには他人のミスだから、本人が改善しない限り、私はどうしてあげることも出来ないと思っていました。そののち、正念を発した時、慈悲なる師父は、この問題の正しい見方を教てくださいました。この同修はいつもミスをしていますが、彼は自分の犯したミスを一生懸命直し、15個のミスを10個も直しました。しかし、私はいつも彼のミスしたところしか見ていませんでした。そこで私の目から見た彼は、いつもミスをしているのです。しかし、神から見た彼は、全力を尽くして、ミスを改めた素晴らしい修煉者に映るのです。
3、またある日、同修の行いが自分の基準に達していなかったため、私は不満でした。その後師父の『オーストラリア学習者への説法』のビデオを見た時、同修が出したスパイに対してどう対処すれば良いかの質問に対して、師父の説法の中から、同修の行いは私たちの修煉環境が反映しているのだと分かりました。また師父が『轉法輪』の中で説かれた、「誰も他人を責めるまでもなく、みんながそれぞれ一役買っているのです」を思い出し、自分も一役買っているのだと分かりました。たとえ他人の不足にしても、やはり「正しきは彼 過ちは私」[2]と言われたとうりです。これで説かれた意味がはっきりと理解できました。
「観念」への再認識
ある日、みんなで交流する時、ある同修が消極的になり、マイナスの考えを言い出しました。それに対して、私は自分の考えを言いましたが、その同修がそれを聞き入れてくれませんでした。その時私は自分の話し方に、相手を指摘する要素があると思いました。もう一人の同修は、自分の認識を皆の前で話す時、とても穏やかに、静かに話しました。するとその話が皆の心にすんなり入り、聞いていた人は反感をもちませんでした。このことから私はその同修と自分との違いに気付き、同時に、さらに深い法理も分かりました。つまり相手に何かを伝えたいとき、肝心なのは、自分の話しが如何に道理があり、正しいかではなく、何の観念も抱かないことが、最も大事だということです。謙虚に、誠心誠意心を込めて話せば、法に符号するので、相手は抵抗なくその話しが分かり、それと同時によくない要素を解体することができるのです。
いつも自分が理を持って他人を指摘しているとき、全て自分が正しいと思って、他人を気づかう純粋な心をなくしていました。すなわち、出発点が「自分を前面に出している」のか、それとも「他人のことを思っている」のかの違いであることに気付きました。
またある日、同修の間で地元の降水量が不足しているのは、大法弟子間の隔たりによるものではないかと話しあったとき、私は自分と同修の間には隔たりはないと言いましたが、同修は「隔たる」は英語では「同意しない」という意味だと教えてくれました。これを聞いて、私は以前から自分の観念に符号しない同修に対して、いつも不満を持ち、隔たりをつくっていたことにも気付きました。
師父は以前「放下」の二文字を告げてくださいました。一体何をもって放下すべきかと考えました。この一連の事を通して、師父が観念を放下することを教えてくださっのだと悟りました。今生形成した観念、何回も輪廻する度に形成された観念、過去の修煉によって形成した宗教への認識、大法を修煉する中で悟ったある次元での認識などなど、これらのすべてが、自らの向上を妨げる障碍となっていたことにも、気付かされました。
私は、この全ての観念を放下しようと決心しました。
同修と全体を形成する
ある日、同修と喧嘩をしたその夜、夢の中で二人の同修が喧嘩をし、色魔がこの隙に乗じ、第三者の同修に妨害を加えたのが見えました。このことで、怒るのが単なる二人の同修の問題だけではなく、全体に魔難を及ぼす可能性があることが分かりました。逆から見れば、同修が妨害された場合、周囲の人間も内に向かって探し、自分のどこが法に符号していないのかを探さなければなりません。例えば、神韻公演の舞台で数人のダンサー達が、ハンカチを持って踊っている場面で、一人のダンサーが誤ってハンカチを落としてしまった時、なぜダンサー全員が、内に向けて探したのかの理由が分かりました。
ある土曜日の午前、事務所のセールスマンたちが会議をしていて、私はセールスマンではないから、会議に参加する必要がなく、公園へ煉功しに行きました。煉功している時、セールスマンの同修たちが煉功しに来れなくなり、法を実証できないのはとても残念だと思いました。しかし一瞬、思いが繋がっているのではないかと気付きました。自分は一人でこちら側に立つのではなく、マスコミを代表して、自分の責任を果たしているのだと認識しました。私たちは皆法の中の一粒子であり、マスコミの一員として、皆が力を合わせ、師父が求められていることをやり遂げるのです。個人としてすべての事を行う必要がないかわりに、それぞれのやっていることが基準に達することで、堅固で壊れない全体を形成するわけです。
大法との関係を正しくする
一度、修煉していないゲストが事務所に来て、同修は彼と一緒に法を勉強していました。彼が真剣に勉強せず、眠そうにしていました。その様子を見て、私は彼を叱りました。彼は家に帰えり、もう大法は学ばないと言いました。同修は私の言動に対して非常に腹が立ったようで、私自身も自分にびっくりしました。私の悪い癖は口を開けば言葉も選ばず、人に向かって怒鳴ることです。これは心に魔が生じているのではないかと思いました。その時の自分の状態は、修煉の道からすでに遠く離れいることに気がつき、その後、私は電話で彼に謝まり、1時間話した後やっと理解してもらうことが出来ました。
大法を尊敬し、衆生を大事に思う人なら、このようなことをするわけがありません。身の程を知らないから、そうしてしまうのです。その心が、学法する時にも表れてきます。観念を帯びて法を読んだり、自分の認識に符号しなければ、受け入れなかったりして、無条件に法に同化できませんでした。これを認識した後、法を勉強する前に、まず自分の心を落ち着かせてから読むと、法を勉強する効果も大分よくなりました。また、大法を利用する心もありました。大法が知恵を与えてくだされば、簡単に専門の知識を身に付けることができるので、プロジェクトもやりやすくなると思いました。無意識のうち、大法を利用しようと思いました。これらはすべて大法との関係を、正しく対処していないから、このようになったと思いました。
以上は最近の修煉の中でのいくつかの不足と心得です。不足があれば指摘を願います。ずっと慈悲に済度してくださっている師父に感謝いたします。また同修たちの包容に感謝します。
(完)
注:
[1]李洪志師父の経文:『二〇一四年サンフランシスコ法会での説法』
[2]李洪志師父の詩:『洪吟三』「誰が是誰が非」