―法を正すことが終わらないのは時間の問題ではなく、救い済度された人数が少なすぎるから
文/中国の大法弟子
【明慧日本2015年10月1日】現在、多くの同修は法を正すことが、すでに終わりを迎えていると、まだ信じていません。しかし、信じるにしても信じないにしても、一つだけ皆さんは、はっきりと分かっているのでしょうか?つまり法を正すことが終わらないのは、時間の問題ではなく、救い済度できた衆生があまりにも少ないからです。そして、多くの大法弟子がまだ表に出ておらず、自分の誓約を果たしていないからです。
私は大法を修煉してから20数年になります。遅れている同修が早く法の中で自分を高め、人間の表面まで法に同化し、自分のすべてを全部持ち帰ることができるように、自分の次元での悟りと認識を持って同修と交流したいと思います。
修煉者は修煉し始めてから向上するにつれ、各種の欲望と執着心を徐々に取り除いていくべきです。
法をよく学び 心性をしっかりと修める
「法を多く勉強しなければなりません。でなければ、異なる次元における真・善・忍の内涵があなたには分かりません。それなら、本当に真・善・忍の通りに行動することができません。」[1]
今まで修煉してきて、恐らく真に「異なる次元における真・善・忍の内涵」が、本当に分かる人はあまりいないはずだと感じました。真に分かっているのなら、決して繰り返して転ぶこともなければ、余計に多くの魔難を招くこともないでしょう。人心があるからこそ、いつになっても成熟でません。根本の原因は、やはり法をよく学ぶことができておらず、高次元の法理が分かっていないからです。
個人の修煉の経験からすれば、心性の基準を決して下げてはならず、法の要求通りに、各種の人心を取り除かなければなりません。さもなければ、人心により招いた魔難も途絶えることはありません。
一、色欲を絶つ
修煉者として色欲の心は完全に取り除かなければなりません。普段、頭の中でこのような考えが少しでもあってはならず、正しく歩むべきです。神韻の若い同修への、師父の厳しい要求は、皆さんもご存じでしょう。本当に法を正すことを手伝いたいのなら、それを果たすために、必ず師父の要求の基準を満たし、純粋で、正しく歩まなければなりません。
二、恨む心を取り除く
修煉者は修煉の中で関や難に遭遇するたび、長期にわたり乗り越えられない時、恨む心が生じやすいのです。しかし、神に向かうには、恨む心があるかどうかは重要な基準になりますので、必ず取り除かなければなりません。多くの同修は、まさにこの恨む心が原因で落ちていきました。
三、正々堂々と苦を嘗め、心を修める
会社の仕事において、私の同僚たちは自分がやりたくない仕事を、私にやらせるのが日常的なことです。私はそれを正しく対処し、恨む心を生じさせず、日々苦を嘗め、修めてきました。
四、他人の間で生じるトラブルに干渉せず、業を作らない
普段の自分は学法、煉功、心性を修める以外、仕事をするだけです。常人の中の多くの執着心も趣味も放下しました。それに人と人とのトラブルに干渉せず、業を作りません。このようにして、思想がだんだんときれいになって昇華され、あまり多くの執着心が生じなくなりました。
しっかり修煉しなければ、たくさんの人心を放下しないかぎり、衆生を救い済度する時、人心が原因で妨害や魔難を招いてきますので、気を付けなければいけません。
五、心から魔が生じる問題
ある程度修煉すれば、この面の問題が現れてきます。功能に執着したり、他の空間の音声が聞こえたことに執着したり、天目で見えたいくつかの現象に執着したりすると、すぐに落ちてしまいます。
一部の同修が、更に天目で見えたもので、自分の修煉を指導し、物事をどう処理するかを判断しています。この面の法を師父はすでに繰り返し説かれましたので、是非自分の見えた現象に執着せず、それを取り除いてください。
天目が開けば、この面の試練も多くなります。ある大法弟子は自分の修煉していない親戚が、火災に遭うのが見えて、すぐに正念を発してその難を取り除きました。事後にまた自らその親戚と連絡を取るようにしました。他の同修が知った後その同修に、修煉者として常人の事を妨害してはならなず、常人の情に振り回されてはならないと注意されました。その同修が見た光景は、まさしく心から魔を生じたことによってもたらされたもので、気にする必要はありません。
もう一人の同修は天目である虚像が見えました。自分がかつて古代のある人物で、人を殺してしまい、業を作ってしまいました。しかも、これから病業の形で、その業を返すことになると光景の中で告げられました。その同修は自分が見たことは事実だと思い、その按配を認めてしまい、結局病業に陥り、亡くなりました。
教訓はまだまだたくさんあります。法に照らさなければ、妨害されてしまいます。何が見えても、心を動じさせてはなりません。
このような現象は旧勢力の按配もあり、高次元の生命が加えた試練もあります。それらの目的は、大法弟子が一体どれだけ大法を認識しているか? どれだけ理解しているか? かれらの按配を見破ることができるかどうかを見るためです。もちろんこのような現象の中に、低次元の生命からの妨害もあります。
多くの同修の修煉が表面まで突破できていないため、人間の表面は神通力を持っていません。尚更自分の修煉を緩めてはならず、心性の基準を下げてはなりません。さもなければ魔難を招いたとしても、本人はまだ原因が全く分からずにいるのです。
六、口を修める
多くの同修は口を修めず、頻繁に他人の修煉の良し悪しを指摘しています。結局業を作ってしまい、魔難を招いてしまいました。実は、やはり、いくつかの人心を取り除いていないため、「無為」の意味と基準が分かっていないからです。
もし、他人が自分に対してどうであっても、自分さえ気にせず、心を動じなければ、まだ他人の良し悪しを指摘する必要があるのでしょうか?心がやはり常人の中にいるから、自分の心が動じました。もちろん同修のため、或いは法を正すことに対する責任感から、法に基づき善意で注意することは構いません。それは相手を向上させるための慈悲なる行為です。この場合、同修が分かってくれればいいのですが、もしどうしても同修が放下できなければ、自分が動じる必要もなく、それをずっと指摘する必要もありません。なんといっても本人はまだ常人の中にいるので、昇華できないでいるのです。私たちは自ら「無為」の状態で、上へ向かって、修煉し続ければいいのです。
私は法を実証する過程で、苦をたくさん嘗め、身体の自由を奪われた時期がありました。その時、くやしくて常人を恨んだこともありました。しかし、これではいけないとすぐに目覚め、自分の心の状態を調整しました。それから再び無為の状態に戻り、他人の誤解に動じないようにしました。それで、自分は知らず知らずのうちに、だんだんと向上してきました。そのおかげで、多くの衆生を救い済度することができましたし、法の異なる次元での現れも見えてきました。
高い次元で修煉する時、心はいつも慈悲な状態です。けっして自分が遭遇した良くない事や、人に辛く当たられたことや、また常人の誤解や社会の形勢の変化に心を動じることはありません。ずっと和やかな状態です。例え一時動じたとしても、その原因を探さなければなりません。自分が悩んだ時、怒った時、機嫌が悪くなった時、まさしく魔性が現れてきた時です。これを意識すれば、自分を制御できるようになれます。
以上の事を全部突破できれば、真相を伝えることもかなりやりやすくなります。
例を挙げますと、私の叔父は古い中国共産党員で、知識のある人です。数年前私は叔父に真相を伝えた時、叔父は聞こうともしませんでした。最近再び真相を伝えると、最初叔父は相変わらず三退しないと言っていました。それでも、私は心を動ぜず、穏やかな心で、「中国共産党のリーダは何人も変わりましたが、彼らはそれぞれ何を強調してきたでしょうか?まったくわれわれ中華民族の伝統と道徳観念と相反するものではないでしょうか」と言いますと、叔父はすぐさま自ら三退すると宣言しました。しかも翌日、会社に出勤した時、中国共産党の組織に脱退の手続きを提出したそうです。私はこのことから、慈悲の力が本当に人を救い済度できると実感しました。
またある日、私は友人宅である人に出会いました。その人はひどくうぬぼれており、中国共産党を軽視するのですが、大法弟子に対しても、「何を忍耐するのよ、馬鹿じゃないの」と言ったのです。真相を伝えても聞き入れず、自分が言っていることだけが正しいと思っているようでした。私は一笑に付して、何も言わず、穏やかに食事を済ませました。食事が済んだ後、バス停に向かい、バスで帰るつもりでした。一緒にバス停に向かった彼は、突然私の手を握り、「どうか私も三退させてください」と言いました。
本当に「高次元の基準」と「無為」の状態が分かれば、人間の一面も迷わなくなり、常人のことにも動じることもありません。常人の言動に心性を影響されることもありません。これでこそ神に向かっている状態と言えるでしょう。
心性をしっかり修煉できず、次元を突破する功力がなければ、人間の境地に留まり、何も得られません。修煉の中で繰り返して次元を下げるのは、つまり法をよく学ぶことができておらず、高い次元の基準と法理がはっきりと分からないからです。
迫害によって、多くの同修は、当時の法を得た喜びと楽観的生き方を見失いました。大法弟子として、意志を強め正々堂々と上を目指して修煉すべきと思います。
(続く)
注:
[1]李洪志師父の著作:『長春補導員法会での説法』