内へ向かって探し 他人を変えようとする心を取除く
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2016年10月7日】師父は「私に手伝っていると同時に、それらは自分を守るという私心を隠しており、みな他人を変えようとしていますが、自分を変えたくありません。皆自分に触れたくなく、ひいては自分が執着して放さないものを最大限に守っています」[1]と説かれました。

 中国にいた時のことですが、ある日同修と一緒に法輪功に対する迫害の真相資料を作っていました。私は資料のコピーをしていて、同修はコピーした資料をページごとに分けていました。彼女は何をしてもテキパキとこなしていましたが、そそっかしくて、よくページの順番を間違えていました。偶然なことに、私は毎回彼女のミスに気づき、「ページの順番がくるっていて、間違っていますよ」と注意しましたが、彼女は「毎回ちょうどミスをしたときにすぐ気付き、あなたはどうしていつも私ばかりをそんなに見ているのですか」と逆ギレされました。「私が偶然に見つけたのは、師父が衆生を救い済度に影響を及ぼさないため、間違った資料を世に出さないように按排されたのかもしれませんよ」と反論しました。

 当時は内に向けて探していなかったので、自分が理にかなっていて正しいと思いましたが、同修が怒って無視されました。間違いを指摘されると怒るなんて、このような不真面目な態度で仕事をすれば、どのように衆生を救うのかと内心で彼女を恨んでいました。2人ともこのトラブルを乗り越えられませんでした。協調人は私たち2人とも内に向かって探さず、お互いに責め合いどちらも引き下がらないため、協調が取れず、衆生を救い済度することはできないと思って、私たちを離れさせました。

 1年後再会したとき、私たちは当時内に向かって探さず、心性の向上するチャンスを逃したことを、とても後悔しました。2人で交流したあとお互いに謝り、自分の内に探さないことは、本当に衆生を救い済度することに、悪影響を及ぼすと反省しました。

 師父は「修煉はほかでもなく、内に向けて探すことであり、自分が正しくても、正しくなくても自分の問題を探すべきです。修めることは、ほかでもなく、常人の心を取り除くことです。いつも批判と指摘を受け入れず、外に向けて人を批判し、相手の意見と指摘を批判しているのであれば、それは修煉なのでしょうか? あなたはどのように修煉していますか? いつも人の不足ばかりを見ていて、自分を見ることを重視しておらず、相手はよく修煉できましたが、あなたはどうなるのでしょうか? 師父はあなたの修煉が良くなることを望んでいるのではありませんか? なぜいつも、意見を受け入れずに、ほかの人ばかりを見ているのでしょうか? なぜ、内に向けて修めず、自分を探さないのでしょうか? 自分のことを言われると、なぜ機嫌が悪くなるのでしょうか? ここに座っている皆さんの中に、突然誰かに名指しされて罵られたとき、平然としていられる人が何人いるのでしょうか? ほかの人に指摘され、批判されたとき、心が動じることなく自分の原因を探す人が何人いるのでしょうか?」[2]と私たちに諭されました。

 私はまだ他人を変えようとする心があり、実はずっと前からこの問題が存在していました。昔私はパソコンの操作がわからず、習おうとも思っていませんでした。それは宇宙人のもので、若者が習えば良いと思いました。しかし、ある日同修と交流したとき、同修に将来資料の作成拠点が多くなり、その時、パソコンの技術者が不足するので、数名の若者だけで教えるのでは間に合わないので、パソコン作業を習得した方が良いと勧められました。私は同修の話は正しいと思いました。衆生を救い済度するというこの特別な時期に、私も習うべきだと思い直しました。

 私はパソコンでインターネットを検索、ダウンロード、編集、印刷などの操作を覚えてから、他の同修を教えると同時に、パソコンの知識を習得しました。この過程の中でも心性の摩擦や試練がありました。例えば、ある日同修と一日列車に乗って、比較的辺鄙なところに住む同修に編集や印刷方法を教えに行きました。私はその同修に教えた事をまずノートにメモしてもらい、分からないときにメモを見るようにとアドバイスしましたが、その同修はメモする必要はなく、あなたの操作を一回見れば、覚えられると言いました。私は最初にパソコンの簡単な操作と印刷方法を教えたあと、同修はもう覚えたと言いました。

 翌朝、その同修に「どう、操作できそうですか?」と聞いたところ、昨日学んだことを全て忘れてしまったと答えました。私は怒って「どうして謙虚に学ばないの? メモを取るようにと教えたのに。いつも自分は頭が良いと思って、面倒くさがってメモも取らないわね。私がまだ帰っていないからいいものの、昨日教えたことをもう忘れてしまうなんて。もし私たちが帰ってしまったら、何か問題があって呼んでもすぐにここには来られませんよ。こんなに遠く離れているんですもの。私たちもあなた方1人1人のための専用スタッフではないのよ」と少し強く説教してしまいました。

 一緒に行った同修がそんなに焦らないでと注意されたとき、私は驚いて、すぐに冷静になり、自分の内へ向けて探しました。私は以前から、人を強制的に自分の言いなりにさせるところがあり、善意をもって同修と交流するのではなく、早く教えて早く帰りたいと気持ちが焦っていました。与えられた仕事を常人のことのようにこなし、同修に資料の作成方法を教えるのは、衆生を救い済度するためであり、心を修煉する過程でもあることを、全く考えていなかったと気づきました。私は自分のこの執着心を放下すると、なんと同修が衆生を救い済度したいという輝く心が見えました。当時その地方では法輪功の真相資料がなく、その同修は地元の同修に衆生を救い済度するため、資料を提供したいとずっと思っていました。私は必ずこの同修が習得するまで、何度でも教えて上げたいと改めて思い、「ごめんなさい。私が間違っていたわ」と謝りました。同修は何も言わずにノートとペンを持ってきて、もう一度最初から教えて欲しいと頼まれました。

 今回同修はとても真面目にメモを取り、3日間かけて印刷された資料を見て「これで地元の多くの人々にも迫害の真相資料が読んでもらえる」と本当に嬉しそうでした。その後、もう一度その地方を訪れたことがあり、その時私たちは一緒に学法し、どのようにページの編集をするか、心を込めて真相資料を作成するかについて交流しました。その同修はその後、自分で小冊子や『共産党についての九つ論』(略称『九評』)の本も作れるようになり、設備の維持や修理までできるようになり、師父が私たちにお互いに向上させる環境を与えて下さったことに感謝していると話してくれました。

 師父は「自分の目的を抱いて相手を変えようとして、或いは相手を説得しようとして人に話を掛ける時、あなたの話がいくら理にかなっていても、相手はそれを完全に受け入れがたく、しかも相手の心を打つこともできないと以前私は説いたことがあります。何故でしょうか? 実は皆さんに教えますが、その話の中にあなたの全ての思惟があるからです」[3]と教えて下さいました。

 ある日、同修のところに『九評』と小冊子を製本する際に紙裁断機で切り方を教えに行きました。前後の距離をどのように計るのか、どのように紙を抑えるのか、数回繰り返して丁寧に教えました。それは、丁寧に教えているように見えますが、実は同修に自分のやり方で同じようにやって欲しかっただけで、同修を信用していなかったのに過ぎません。そのときは自分の執着に気づかなかったのですが、一緒に行った協調人の同修は大きい声で「自分が何でもよくできる、他の誰もが自分に敵(かな)わないと思わないで下さい。このことは誰でもできますから、そんなにくどくと言わなくてもわかります」と叱られました。当時はメンツの心が放下できず、「同修にできる限りむだな回り道を避けてもらいたかっただけですよ」と反論しました。家に帰ったあと、内に向かって探したら、やはり同修を自分のいう通りにしてもらおうとするところがあり、これは正に他人を変えようとする心ではありませんか? そう思うととても恥ずかしくなり、本当にその協調人の同修に感謝せねばと思いました。もしその同修に大きいな声で叱られなかったら、自分の執着心と自分を実証する心が見つからなかったかもしれません。

 同修の皆さんもトラブルに遭ったとき、他人を変えようとする心を取り除き、私たちが一緒にいる縁を大切にしましょう。もしこの縁を見逃したら二度と巡り合うことはないかもしれません。同修と一緒に修煉する機縁を大切にし、どんなトラブルが起きても、自分の内に向かって探しましょう! 私たちの全てを大法が授けてくださったのです。偉大で慈悲なる師父は、時々刻々弟子を見守ってくださり、私たちはこのような万古の機縁を大切にし、師父が法を正すことを手伝い、もっとたくさんの衆生を救い済度しましょう!

 不足なところがあれば、同修の慈悲なるご指摘をお願いいたします。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作『北米での巡回説法』
 [2] 李洪志師父の著作『ロサンゼルス市法会での説法』
 [3] 李洪志師父の著作『スイス法会での説法』

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2016/8/27/333580.html )
 
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