師父の偉大さ
■ 印刷版
 

文/米国の大法弟子

 【明慧日本2017年6月22日】大法弟子はみな知っていますが、師父が衆生を救うために無辺の業力を引き受けられてきて、体にはとても大きなダメージを受けられています。大法弟子の私たちは師父が私たちのために耐えられてきていることをどのように捉え、どのように対処するべきなのでしょうか?

 師父が耐えて下さっていることを見て、私たちは師父が私たちのために犠牲を払われていることを大切にし、さらに、さらに精進していくべきです! しかし、一部の大法弟子は精進の状態を保てず、大法弟子として重大な歴史的使命を引き受けていることを悟らず、師父が私たちのために切り開いて下さったこの万古の機縁を大切にせず、師父が血と苦痛を持って引き延ばして下さった時間の中で人間の安逸と幸せを貪り、享受しています。

 この文章を書く間でも、私は時々大法の事をきちんと実行できず、睡魔と怠惰な心の影響を受けて多くの貴重な時間を浪費してしまい、本当に恥じ入り気が咎(とが)め、絶えず自分に「必ず法を得た当初の精進の気持ちを保ち、絶対にだらけてはならない!」と言い聞かせ、戒めました。

 師父はこのようにおっしゃっています。「誰でも知っていることですが、イエスが常人の中に来て人を済度する時に、彼は人のために苦しみに耐え、最後に十字架に釘付けにされました。あなた達はこの意味を知らずに、ただユダヤ教がこの良くない事をやったと思っています。実のところそんなに簡単な事ではありません。それは別の要素があるのです。もしあなた達の先ほど言ったような考えに基づけば、イエスにはそんなに大きな能力があって、白人の神は彼の父親なのですから、彼は何かをしたいと思えばしたらいいではありませんか。どうしてまた地上で苦労して人々が良い事をするように説得し、真理を人々に伝え、さらに人のために多くの苦痛に耐える必要があるのでしょうか。当時まだその他の宗教からの抑圧と破壊も受けていました。彼はどうしてこのようにする必要があるのでしょうか。つまり、彼にそれほど大きな能力があるのに、彼も人の心を良くしてはじめてその人を済度することができるのです。もし来場の皆さんも自分の心性を修煉の中で圓満させることができなければ、私もどうしようもありません。私は皆さんに法理を伝え、功を演化することができ、さらにあなたのために一部分の業を滅し、あなたを守ることができます。私はまた皆さんのために皆さんが知らない圓満中と圓満後に必要なすべてをやってあげることができます。しかしもしあなたの心が動かず、心が向上しなければ、一切は無駄です。これはつまり私の言った人の心が動かなければ、佛もどうしようもないということです」[1]

 師父の説法から悟ったことですが、師父はご自身が耐えられていることを私たちにお見せになったのは、私達の精進して着実に修煉していく心と、師父が慈悲深く私たちを済度されることに背かない心を啓発するためだと思います。しかし、一部の大法弟子は師父が耐えて下さっていることを正しく捉えることができず、それを見た時に生じた念は感恩(かんおん・恩を感謝すること)ではなく、内に向けて自分の不足を探すことではなく、自分をよく修めていこうという決心でもなく、それが懐疑(かいぎ・うたがいを持つこと)であり、師父を信じる信念の動揺であり、甚だしきに至っては反対側に回り、師父の正法を妨害している旧勢力に「大法弟子に試練を与えてもいい」の口実を提供しました。それによって、旧勢力は憚りなく持続的に師父にトラブルをもたらし、師父の正法に対する妨害を諦めようとしません。

 もう一つの問題は、正法の中で、多くの大法弟子は自分には大法を守る責任があることをまだ悟っていません! 発正念のとき、私たちは主に自分に対する妨害を排除しようと考えていて、師父に対する妨害を排除しようとは、ほとんど考えておらず、考えていないと言っても過言ではなく、師父が耐えて下さることを当たり前のように考えていると思います!

 『スイス法会での説法』の中で、師父はこうおっしゃっています。「多くの人がこの法を学びにきており、将来更に多くなると皆さんも分かっています。修煉しようとすると、これらのことは皆師父がやってあげなければなりません。しかし、私は彼らと違います。なぜならば、イエスにしても、釈迦牟尼にしても、彼らはなんといっても小さい天体範囲にある覚者です。私は宇宙の中にいないので、異なる次元、異なる天体と宇宙にある異なる生命のことを解決できます。人を済度することは私の本当の目的ではないと言いましたが、人間がその中に含まれている一つの次元の生命であり、私が救い済度しようと思う生命です。実際のところ、私には難がなく、修煉ということもありません。私がぶつかった全てのトラブルはめったに常人のところに現れませんが、この世に現れたものもあります。その多くは皆さんに分かりません。私がこのことから解脱することができるのは、私はその中にいないからです。私に彼らのように、解脱できなくなるようなことはありません。私は解脱できますが、それは至難のことで、いかなる生命にも想像のつかないことです。私は最大限に私の全てを放棄できるので、この全てを解決できます。(拍手) 

 先ほどこのことに触れましたが、ここでついでにもう少し厳しく言っておきます。私の周りにはいつも一部の学習者がいますが、各地にも責任者や補導点の世話人或いはほかの責任者がいます。これらの責任者に分かってもらいたいのは、皆さんが遭った全ての出来事が関を乗り越えることですが、師父を代表することはできないのです。いなかることに関しても、私がこのことに参与したから、皆さんは私の角度から問題を考えなければなりません。これは今まで皆さんに軽視されていたことです。私に厄介なことをもたらしたら、それはこの法に対する破壊です。ですから、皆さんの関を乗り越えることと全く違います。これは決して師父が修煉しており、或いは師父が関を乗り越えているということではなく、それは法と宇宙に対する破壊ですから、同等に扱ってはいけません。このことについてはっきりと認識しておかなければなりません。私は問題を処理する時、それを本当の魔として片付けることができますが、皆さんは決してしてはいけません。皆さんがぶつかったいかなる出来事も皆さんの修煉と直接的に関係しています。ですから、それを修煉として見なし、自分の原因を探らなければなりません。これは明らかに違います」[2]

 学法を通じて悟ったことですが、大法に対する妨害の多くは大法弟子への妨害、または大法弟子が実行しているプロジェクトへの妨害として現れていて、発正念してそれらの妨害を一掃する必要があると思います! しかし、師父に対する直接的な妨害、師父が法を正されることに対する直接的な妨害や、師父が参加されている事(たとえば神韻公演)への直接的な妨害もあります。これらの妨害に対して、われわれ大法弟子ははっきりと正しく認識する必要があり、発正念の際は確固たる意志を持ってこのような妨害を一掃するべきだと思います! これも大法弟子が常に言われている「法を正す師に手伝う」の一つの内包だと思います!

 『正念の作用』という経文の中で、師父はこのように書かれています。「大法、さらには大法弟子に対する迫害を軽減するため、わたしは弟子たちに正念を発するように教えました。それらのものが法を正すことに故意に及ぼした破壊の作用を一掃することによって、迫害の中で大法弟子にとって耐えるべきではないものを減らすと同時に、衆生を救い済度し、大法弟子の世界を圓満なるものにしているのです」[3]。 明慧編集部は発正念に関する文章の中で、発正念の際は「大法を破壊する全ての邪悪」[4][5][6][7]を根絶するようにと明確に言及しています!! しかし、発正念の過程で、大法への迫害、正法への破壊、大法を破壊するすべての邪悪を一掃するこの肝心な点が、一部の大法弟子によって見落とされました。私自身も発正念の際は時々、「大法を破壊するすべての邪悪を根絶する!」に念力を集中しにくく、思想はいとも簡単に他の考えに持って行かれたことを感じました。

 ある交流文章で、以下のことを読んだことがあります。「ある日、私は師父の法身に導かれて、一つの古代の城楼の下に行きました。ある方が城楼の上に立っておられ、城楼の下には数え切れないほどの群衆がいて、皆は弓を持って立っておられる方目がけて矢を一斉に射っていました。私は立たれているその方の体全身にいっぱい矢が刺さっていることを見ておられず、城楼に上がってその方に『こんなにも大きな能力がおありであれば、少しはお避けになることはできませんか?』と尋ねました。その方は振り向いて私を見て『私が誰か見てごらん』と言われました。私はその時になってやっとそのお方が師父であることに気づき、たちまち泣き崩れてしまいました。師父は『避けてはなりけません。私はあなたたちの代わりに罪を償っているのです!』 師父が私たちのために罪を一手に引き受けられていることがやっと分かりました!」

 文章の中で続きは書かれていませんでした。多くの読者はここまで見てどう思われているでしょうか。ここまで読んだ私が真っ先に考えたのは、師父に向けて矢を射っている彼らを許しません。私がその場にいるなら、すぐに師父の前に行ってそれらの矢をしっかりと遮ります。この念を発した後、座禅中にどうしても脚を下ろしたいほどの耐えきれない痛みを感じました。しかし、私はなんとしても絶対に脚を下ろさないと意志を固めました。そして、師父に矢を射る邪悪を一掃するために強い正念を発するべきだと思います! この宇宙のいかなる生命も師父と大法によって創造されたので、誰にも創世主に向けて矢を射る資格がありません。そう思った私は邪悪を取り除くための正念を発しました。その日の静功で私は多くの業力を消去し、忍耐力も高めたと感じました。また、その日に座禅を最後まで組み、迫害を加重させたそれらの要素の猛攻に耐えることができたのは、師父による加持があったと感じました。

 要するに、私の理解は、師父が耐えて下さっていることを見た時、それが当然だと決して思ってはならず、当たり前だと決して考えてはなりません! 師父が耐えて下さっていることに直面して、大法弟子は師父の慈悲なるご済度を大切にし、内に向けて自分の心性の不足を探し、いかに修煉においてさらに精進していくことができるかを考えるべきです! 同時に、師父と大法に対して妨害と破壊を行う一切の邪悪を排除するように正念を発し、師父と正法に対する邪悪のいかなる口実によるいかなる破壊をも絶対に認めず、堅い信念を持って師父と大法を守るべきです!!

 大法に対する理解には限りがありますので、不足する部分があれば同修の慈悲なるご指摘をお願いします。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『ヨーロッパ法会での説法』
 [2] 李洪志師父の著作: 『スイス法会での説法』
 [3] 李洪志師父の著作:『精進要旨二』「正念の作用」
 [4] 明慧編集部:『正念を発しよう』明慧ネット2001年5月25日
 [5] 明慧編集部:『再び正念を発しよう』明慧ネット2001年5月29日
 [6] 明慧編集部:『決まった時間に正念を発しよう』明慧ネット2001年6月3日
 [7] 明慧編集部:『正念を発することについて』明慧ネット2001年11月27日

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2017/6/13/349531.html)
 
関連文章