フェイスブックでの交流について考える
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文╱海外の大法弟子

 【明慧日本2017年10月16日】最近、国内外の多くの同修はフェイスブックでアカウントを作り、真相を伝える他、個人的にも交流を行い、一部の同修はとてもオープンな形で修煉の中に起きた問題について論じ、甚だしきに至っては同修間の論争や互いの不平不満、さらにグループ学法の詳細な内容までも、フェイスブックに投稿しているのです。一方、それに対し、多くの学習者から様々な異なる意見のコメントが寄せられました。この事について、私は個人的な意見を述べさせていただきたいと思います。

 個人的な考えでは、修煉の問題に関しては、このようなオープンな形で、フェイスブック上で議論すべきではないと思います。師父は『オーストラリアの学習者に対する説法』のビデオの中で、「内部と外部を区別しない」という問題について、厳しく強調され、そして、常人は修煉の中の状態をとても理解できないと説かれました。

 師父の説法について、私の理解では、「常人は修煉者同士に起きた多くの問題が修煉と、心性の向上と関連していることを理解しておらず、修煉の理と常人の理とは真逆であることも知らない。もし、修煉者が心性の関門を通り抜けた時の状態を、いきなり常人に見せてしまえば、それは彼らの法輪功に対する認識に悪い影響を及ぼしてしまうかもしれない。それは真相を伝える時、言うレベルが高いことと同じで、つまり人を外に押し出してしまうことになる」と思っています。

 個人的な理解では、フェイスブックを修煉者の交流の基盤やベース 、あるいは主力なプラットフォームにすべきではないと思います。私達は「地元の学法グループで面と向かって交流するか、あるいは明慧ネット、正見ネットで文章を持って交流する」という従来の交流方法を尊重すべきです!!

 もし、自分はいろんな学法グループの中で「親友」が見つからない、あるいは書いた文章が大法弟子のウェブサイトで発表できないと思うならば、また、どうしても他のチャンネルを通して、発言する場所を見つけなければならないとなれば、実は、自ら内に向けて探すべきではないでしょうか。つまり、大多数の学習者に理解してもらえるように、自分の意見の伝え方を改善するか、あるいは自分には確かに問題があるのではないか、と考えなければなりません。

 修煉の集団に溶け込めない事は、決して小さい問題ではありません。もし、従来の面と向かって法を学ぶ環境でも、あるいは大法のウェブサイトでも有効に交流が出来なければ、そして、どうしても他のチャンネルを切り開きたいとなれば、それはすでに道を踏み外している兆候ではないでしょうか。

 もし、自分が論じたい問題が本当に重要だと考えていれば、文章にして明慧ネットで発表して、もっと多くの学習者に見てもらって、議論してもらって、もっと多くの学習者に参考にしてもらい、受益させた方がいいのではないでしょうか。

 反対に、例えば1~2人の常人が、フェイスブックでこのような論争を目にすることによって、大法にマイナスな考えを生じ、あるいは下心のある人がこの論争を断片的に使って悪用してしまえば、私達は大きな過ちを犯すことになるのではないでしょうか。

 古い学習者として、従来の交流方法を支持し、できるだけ交流を効果的に行うことこそ、大法と全体に対して、責任のあるやり方ではないでしょうか。

 同時に、すべてのフェイスブックでアカウントを持っている学習者に提言したいのですが、公な場で修煉の問題を論じる投稿に、コメントを書き込まないでいただきたい!! 賛成にしろ、反対にしろ、コメントをすれば、その投稿が盛り上がり、そして、注目度が上がってしまうからです。

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2017/10/11/355297.html)
 
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