修煉者の正念――「大丈夫だ」について考える
■ 印刷版
 

文╱中国の大法弟子

 【明慧日本2018年2月12日】私は1996年の年末に修煉を始めた古い大法弟子です。『明慧週刊』で同修が危険な目に遭った時、「大丈夫だ」と言って対処しているという交流文章をよく読みました。その後、魔難に遭遇した時、私も修煉者の正念で対処し、心の中で「大丈夫、大丈夫」と思い、その結果、本当に無事に乗り切ることができました。

 一、頭を切ってしまったが すぐに治った

 1999年4月の中旬、私は家で小さな腰掛けに乗って本棚の上から物を取ろうとしました。しかし、腰掛けが倒れて転倒し、頭がピアノの脚部にぶつかり、痛くて立ち上がれなくなりました。私は頭を押さえて、「痛い、痛い」と叫びました。夫が私を助け起こした時、私は頭を押さえた手が血だらけになっていることにやっと気づきました。「頭を切ってしまった! 病院で縫ってもらわなければならない」と私はすぐに思いました。

 病院に到着すると、突然自分が修煉者であることに気づきました。その時、頭からまだ血が出ていましたが、私が「大丈夫、大丈夫」と思うと、出血は本当に止まってしまいました。その日の午後、私はいつも通りに同修の家に行って集団学法に参加し、何事もなかったように過ごしました。4日後、頭にできた瘡蓋(かさぶた)が取れて、長さ3センチほどの瘡蓋にたくさんの髪の毛がくっ付いていて、頭皮が少し禿げていました。しかし、禿げた所にはすぐに髪の毛が生えてきて、今では傷すら残っていません。

 ほぼ同じ頃、ある男性同僚の頭も切れて、同じように3センチほどの傷を負いました。彼は病院で十数針も縫って、こちらは2週間後にやっと抜糸したそうです。

 二、足が車に轢かれても、無傷だった

 2003年の春頃、母とタクシーに乗ってショッピングモールに買い物に行きました。タクシーがショッピングモールに到着した後、私は「降りますよ」と言いながら、ドアを開けて降りました。しかし、私が足を地面におろした途端、運転手は車をゆっくりと発車させました。後輪が私の右足を轢きました。激しい痛みで私は顔をしかめました。しかし、私はすぐに笑顔を作り、心の中で「大丈夫、大丈夫」と思うようにしました。そして、何事もなかったように車の前に行って、助手席に座っている母親に下りてもらい、ショッピングモールに入りました。

 しかし、よく見ると私の履いていた新しい革靴の底が割れて、かかとが真っ赤になっていました。その後、足にあざができたことが分かりましたが、わずか数日間で回復しました。私の足は今でも何の問題もありません。

 三、我慢できない頭痛が一念で治った

 最近の事ですが、私は突然頭が痛くてたまらなくなりました。私は玄関設位ではないかと思い、1日か2日で良くなると思いました。しかし何日経っても治らず、しかも、頭が我慢できないほど痛くなりました。仕方なく、私は家でしばらく寝ました。「この痛みはいつになったら消えるのだろうか? まさか3カ月、5カ月もかかるだろうか?」と思いました。こう思った途端に「これは間違った考えだ」と気付き、すぐに自分の良くない考えを否定し、そして、「すぐに治ります」との一念を発しました。その結果、本当にすぐ良くなりました。

 四、交差点で緊急に車から飛び降りた

 私はもうすぐ70歳になります。しばらく前、4人の同修(運転手も含む)と一緒に真相DVDを配りに行きました。帰りに私がバスに間に合うようにと、車は交差点の信号機の近くで私を下してくれました。私は時間がまだあるし、しかも交差点の近くでここで降りるのはあまりよくないと思い、降りるかどうか迷っていました。しかし、1人の同修が「早く降りてください」と催促したため、仕方なくドアを開けて降りることにしました。しかし、片足を地面におろした瞬間に車が動き出しました。私は足を戻そうとしましたが、体の重心はすでに車の外側に傾いていました。もしこのまま降りると、きっと車に轢かれるだろうと思いました。その時、運転手は助手席の同修と話に夢中で、後部座席で何が起きているか全く知りませんでした。私は他の選択肢がなく、車から飛び降りました。

 飛び降りる前、私は師父に車に轢かれないようにとお願いして、両足が宙に浮いたまま飛び降りました。それで転倒して、左ひじが地面に突きました。痛めた肘を見て、私は心の中で「大丈夫、大丈夫」と思いましたが、やはり私に「早く降りなさい」と催促した同修を怨みました。それは怨恨心でした。怨んだ途端に、私の肘の皮ふが破けました。

 家に帰った後、内に向けて探し、今回の事は自分が普段他人の話を聞きたがっていて、主意識が強くないからもたらした結果だと分かりました。そして、人を怨んではいけないと思いました。その後、肘の傷に早くも瘡蓋が出来て、取れてしまいました。

 修煉には偶然なことはありません。これらの事が起きたのは、自分が借りた借金を返していないか、或いは妨害なのか、或いは自分に漏れがあるから邪悪に隙に乗じられたか、或いは心性を高めなければならないのか、などが考えられます。いずれにしても、このようなことに遭遇した時、すぐに内に向けて探し、特に病業の関門を通り抜ける時、必ず修煉者の基準で自らを律して、常人の物事の考え方を捨てて、普段から、自らの一思一念を修めなければなりません。師父は「物事の善し悪しは人間の一念によるものであり、その一念の違いによって異なる結果がもたらされることがある」[1]と説かれたからです。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『轉法輪

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2018/12/25/378877.html)
 
関連文章