私の真の家は すばらしい法輪世界にあった
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 文/中国の大法弟子

 【明慧日本2020年5月27日】私は某大学の自動車専門の元幹部で、老教授でした。今年ですでに77歳になります。1996年に私は幸運にも法輪大法を修煉し始めました。

 退職前、私は独学で英語を学んで試験に合格し、カナダの奨学金留学生募集に合格し、カナダで自動車を専門に学ぶ機会を得て、1年間勉強しました。帰国してからはまた自動車を専門に研究したくて、再びカナダへ行きたいと思っていました。しかし、大学の指導者から、図書館の館長を命じられるとは思ってもいませんでした。それは私の専門ではないので、あの手この手を使って行こうとしませんでした。力を入れて努力して学び、研究したいのは自動車を専門に学ぶことで、図書館の館長ではなかったからです。ですから、とても心が辛かったのです。

 夢の中で天上に帰ると、私の家は法輪世界にあった

 夜、私は一つの夢を見ました。大きな浜辺で赤い絨毯(じゅうたん)がゆっくりと海辺へ向かって広がり、2人の黄色い袈裟を着た崇高な僧侶が私を迎えて、絨毯の上に立っていました。この上ない美しい海辺へ下りて行くと、私が見た二隻の船はとてもきらびやかで美しく、まばゆいばかりに輝く神船でした。まるで玉石の彫刻が施された瑠璃瓦のようでもあり、古代の華麗で立派な宮殿のようでもあり、いずれにしても、人間の言葉で言い表わすのはとても難しく、見たこともないとても美しいものでした。

 2人の崇高な僧侶は私を連れて、その中の一隻のきらびやかな神船に上がると、船はゆっくりと進みはじめました。どのくらいの時間経ったのか分かりませんが、前方にはまばゆいばかりの黄金の光を放つ、とても美しい蜃気楼が私の目の前に出現しました。そして、私たちは赤い絨毯を踏んで岸に下りると、岸の上の家々はみな光を放っており、透明な美しい金色や青色に輝く宮殿であったり、鮮やかでまばゆいばかりの楼閣であったり、また、とても多くの非常に美しい庭園の中の花草樹木などが目に止まりました。その美しくて立派な宮殿や楼閣、庭園の光景は、言葉で表わすことも描写することも出来ません。

 2人の僧侶は私を一軒の黄金に輝くあずまやへ導き、そこには豪華な机や腰掛けがありました。座ると、どこからか僧侶がお茶を持って来たり、また、黄色の美酒を持って来ました。私が感じたのはこの仙境の環境は、身に余るもてなしの待遇で、私は内心の深い所で震撼して言葉では言い表せられず、この感動は形容できません。1人の僧侶が私に聞きました。「ここが良いですか? それともカナダが良いですか?」。私は言いました。「こちらの方が、ずっといいです」。僧侶がまた、言いました。「あなたはここがいいと言いました。それでは帰ってから良く修めてください。ここは法輪世界と言います。あなたは将来、この法輪世界に帰るのです」

 2人の崇高な僧侶は赤い絨毯を踏んで、また私を海辺へ送りました。それ以来、「法輪世界」の光景はずっと私の脳裏に刻まれ、心の中に深く刻まれました。まるで昨日の事のようで、なぜなら、それが本当に真実で明瞭であったからです。この素晴らしい記憶はもう消すことが出来ません。人間の全ての言葉を尽くしても、形容することが出来ません。

 この夢の事を思い出すたびに私は感動で涙がこぼれます。私は法輪世界から落ちて来た子供だったのです、私は法輪世界から落ちてきた子供です。師父、私は必ず真の家へ帰ります。私は必ず師父について、私の本当の家へ帰ります。

 私は妻(同修)にこの夢のことを話すと、妻は私に言いました。「あなたは大法を修め始めたばかりなので、師父があなたの面倒を見てくださり、全てを按排してくださいました。技術の研究に没頭すると学法煉功する時間がありませんし、図書館なら学法や煉功する時間がありますね」

 次の日、私はうきうきと図書館に行き、館長に赴任して、また頻繫に大学の同修と図書館で学法や煉功をし、堅持して修煉の道をしっかりと歩きました。

 自分の家にも、小さな花(資料点)が開いた

 しかし、1999年7.20、江沢民の個人的な嫉妬により、狂ったように大法と大法弟子が酷く迫害され、大法と師父は全て悪意による無実の罪をきせられ、衆生は虚言に毒害され大法を敵視し、私は心がとても辛かったのです。邪悪にこのようにやりたい放題に大法を迫害させてはならず、衆生に危害を与えてはいけません。私は世間の人に大法の真相を知ってもらう必要があると思いました。

 私は機械を買って、消耗品を買って、プリンターで大法の真相資料を作り始めました。あの時は毎日仕事に行く以外、少しでも時間があれば自分で真相資料を作って配りました。私たち周囲の同修にも大法の資料とディスクを提供する責任がありました。

 あるとき私と妻は数百枚の真相資料(神韻DVDと小冊子)を持って、二つの大きな食堂の前に行き、学生たちに直接手渡しました。私と妻が半分の資料を配っていたとき、旧自動車専門の書記と主任が食堂にやって来たので、妻はすぐに私に「書記が来たわよ」と教えましたが、私は何の反応も示しませんでした。私はその時には学生を救う事だけを考えていて、早く学生を救わないと行けないと思い、続けて真相資料をを配布していたのですが、書記と主任が私たちの前を通り過ぎても、気づかれることはありませんでした。師父のご加護のもとで、真相資料は全て配布し終わりました。

 修煉の小さな物語

 ある時、そんなに暗くないので、学生の宿舍に行って法輪功の真相資料を配布しました。ちょうど保安課警官と市、区公安監督員も大学を巡回していて、結果的に3人の警官に見られていました。警官が学生宿舎の窓から小冊子とディスクを取り出して言いました。「これはあなたが配布したのですか? こんな真昼間に学生達に配布するなんて。外も人が多いというのに、あんたと言うじいさんは大胆過ぎる」

 警官らは私を警備室に連れて行きました。私に法輪功の資料を配布したのか? と聞いたので、私は「はい」と答えました。私は怖くなかったし、心の中で思ったのは、師父は私の側にいてくださり守って下さっている、そう思えば逆に嬉しくなってきました。心の中で「あなた達は見ていてください」と思いました。警官は言いました。「法輪功の者であれば、罰しなければならない。あんたを地方に送る」。
 警官らは私をパトカーに乗せると、留置場の方向へ向かいました。しかし留置場の門まで来たとき停車せず、そのまま私を郊外の人気のない所へ連れて行って、停車しました。この時すでに暗くなっており、警官は言いました。「あんたをここで降ろそう」。私が車から降りて見てみると、どこだか分からない場所で、周りには家もありません。私はユーモラスに言いました。「ここでは私は狼に食べられるに決まっているでしょう。身内はあなた方に責任を追及するんじゃないですか?」。警官は笑って「それもまあそうだ。迷子になりそうだし、我々にも責任がある。車に乗って、ある所に連れて行く」と言いました。私はまた車に乗りました。そして大学の家族舎の出入口まで来て言いました。「おじさん、ここだと迷子にはならないだろう。車から降りて帰って。これで罰を与えたことにしよう」。師父はまた私を守ってくださいました。師父、ありがとうございます。

 省の工作委員会は法輪功の誹謗中傷の写真を大学に送って、展示パネルにして図書館の2階にかけました。そこは始終学生や教員の行きかう通路でした。大学にいる同修たちが見て、皆とても焦っていてどいうしよう、どうしようか? と思いましたが、誰も引き剝がすことが出来なくて、ただ家で発正念をして邪悪を取り除くだけでした。

 私はこれを聞き、これ以上邪悪に人を害させ、学生を害させてはならず、それを剥がさなければならない、と思いました。午前10時頃、私はそこに行ってその展示パネルを一気に剥がして、巻いてわきの下に挟んで外に出ました。私はわざと門番に挟んでいるものを見られるようにしました。なぜなら、門番が責任を被って辞職することを恐れてこのようにしました。私がもし門番に捕まってもかまいません。門番が2階でそれを見た時、私の仕業だとして、止めにきました。当直の警官が大学の610弁公室の人員に、「どうしようか?」と聞きました。その人員は真相を理解していて、「彼を捕まえてどうするの? 私が彼に剥がさせたのだ、解放してやれ」と言いました。これ以前に私と妻と同修は、何度も大学の610弁公室の人員に大法の真相を伝えており、三退もさせて、良い未来があるようにしていました。師父の加護の下で、私はまた危険を無事に乗り越えることが出来ました。

 またある時、私は郊外の公安局の人員に連行されたとき、大学の610弁公室の警官は私を連れ戻してくれました。またある時の夜、私と妻と同修は郊外に法輪功の横断幕をかけていると、派出所に連行され、その後また郊外の支局に送られました。私と妻はそこで一夜を過ごしました。その間、1人の警官に大法の真相をはっきりと伝えて三退させ、次の日の朝、真相を理解した警官は、私たちに朝食を食べさせた後、解放して家に帰してくれました。

 大法弟子の叔母と叔父

 私たちは頻繫に刑務所に行って、正念を発して邪悪を取り除きました。時を経て、ある外地の大法弟子が酷く迫害され、かかとは腐って麻痺していると聞きました。しかしその後、誰も何年も見ていないと言うことでした。邪悪にこのまま大法弟子をしたい放題に迫害させるわけにはいきません。私と妻は彼をずっと見に行きたいと思っていましたが、私たちが大法修煉者だとばれてもいけません。なぜなら、そこは刑務所だからです。それでもこの一念が起きてから、師父は私たちを助けてくださいました。

 刑務所に到着すると、私たちがまだ口を開けていないうちから、警官は先に言いました。「あんたらは彼の叔母、叔父か?」、 私は「はい」と答えました。警官は「まだ彼を見に来る人がいるなんて」と言いました。私たちの身分証を警官はざっと見て、特に何も言いませんでした。面会の時に、彼は担架で運ばれて出て来ました。

 私は彼に教えました。「覚えてね、私たちはあなたの叔母、叔父ですよ」。私たちは彼にたくさんの食べ物と生活用品を買いました。後で分かったのは、彼の妻は大法の真相を理解出来ず彼と離婚しており、息子も彼を相手にしませんでした。迫害が最も厳しかった冬のある日、彼は捕まるのを避けるために極寒の中、山奥に逃げ、凍えて耐えられなくなり、暗くなってから、やっと下山して山の麓(ふもと)にある年老いた羊飼いの小屋に駆け込み、寒さと飢えで意識不明になりました。目が覚めてから、老人は彼に食べ物を分けてくれて、そのまま彼を放っておけず、彼のために車で街中に行き、同修を見つけることが出来ました。極寒の日に山奥で凍えながら一昼夜を過ごしたので、両足は凍傷になり、かかとは少しずつ腐っていきました。

 その後、真相資料を作成したことでまた捕まり、11年の不当判決を下されました。長年刑務所の中で誰も面会に来ることも聞くこともなく、彼の親戚や友人は何年も彼と音信不通だったので、皆が死亡したのだろうと思っていました。

 刑務所で残酷に迫害されて、悪徳警官や受刑者は皆が彼をいじめ、それで大小便を失禁してもズボンも履けず、ただズボンを巻いているだけでした。尿は敷布団の上で全部して、受刑者らはそれを流水で流して絞ることもせず、濡れたまま掛け布団をかけていました。服や布団を変えたり着替えたりもなく、長年お腹を下していてもトイレットペーパーさえなく、長年その周りは臭くて湿っていました。また彼の下半身は麻痺して歩くことも出来ませんでした。長年刑務所でひどく迫害されも誰も来ず、本来であれば40幾つかのハンサムな男性ですが、今は中国共産党によって迫害されたために、骨と皮だけに痩せこけて歯も全て無くなり、小さな老人のようでした。私たちが彼に会いに行く時には、彼にお金を残し、生活用品や上着や肌着などの衣服、寝具や靴、インスタントラーメンと果物を買って持って行きました。受刑者らや警官は私たちがこんなに良くしているのを見て、彼に対する態度も良くなっていきました。警官はまた1人の大法弟子を見つけて、彼の面倒を見させました。このように毎月私たちは彼に面会に行き、彼が出所するまでずっと続けました。

 この期間、街中の大法弟子は弁護士を探して大法の真相を伝え、治療のための一時出所を求めました。またある同修は、彼の妻、息子、兄、父親を探して真相を伝えました。彼の母親は彼が捕まった時、悲しみのあまり亡くなってしまった。彼の父親は真相を理解して、「息子は無実の罪を着せられた」と知って号泣し、息子に会いたいと思ったがすでにベットから起き上がれず、息子の出所を待たずして、この世を去ってしまいました。

 彼の弟も真相を理解していませんでした。弟に「兄に会いに行くように」と言いましたが、弟はとても気が進まないようで、「私の1日の給料の300元(およそ4500円)は誰が出すのか」と言いました。私はその時に弁護士による医療を受けるための一時出所を遅らせまいと、300元を取り出して、彼の弟に手渡しました。またある時に、彼の弟は「給料の300元をくれ」と私に言ってきたので、渡しました。その後、彼の弟は真相を理解すると、大法弟子の皆が良い人である事を知って、皆が彼の兄に対して良くしている事を知りました。私たちが一緒に食事している時、彼の弟は涙ぐみながら「あなた達皆が良い人で、それなのにあなた方にお金を要求するなど、私は本当に良くない事をしてしまいました。ごめんなさい」と謝りました。

 彼が出所する日、私たちの街の100人ほどの大法弟子たちが駆けつけて、数台の車に乗って、弁護士も連れて行きました。皆は刑務所前の広場で正念を発しました。彼が刑務所から出て来た時、私たち100人ほどの大法弟子はすぐに彼の周りを取り囲み、彼を中心に迎い入れました。刑務所の610弁公室と当地の610弁公室が結託して、また彼を迫害しようとしましたが、大法弟子が幾重にも取り囲み、彼を守ったので成功しませんでした。

 彼の弟は、膝をついて泣きながら土下座して、「ありがとう、ありがとう、ありがとう!」、「法輪大法は素晴らしい、真・善・忍は素晴らしい、法輪大法は素晴らしい、真・善・忍は素晴らしい」と絶えず叫びました。兄も泣き、弟も泣いて、その場面にとても感動しました。刑務所全体が沸き返って、サー、サーとカーテンが開く音で、一つ一つの窓が開かれ、刑務所の全ての警官らが皆、窓からこちらを見ていました。一部の者は降りて見に来ました。その光景には本当に驚きました。その日、私たちは刑務所から無事に彼を迎え入れることに成功しました。

 現在、私と妻は毎日家でしっかりと学法し、煉功し、発正念をして、また、頻繫に出かけては、大法の真相を世間の人に伝えて人を救っています。法輪世界の夢を見たあの時のことを思い返す度に、心は長い間、ずっと平静でなく、神の道を引き返すことなく、しっかりと歩んでいこう、といつも奮い立たせてくれています。

 ※ 2019年4月13日に中国明慧ネットに、この記事が掲載されました。

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2019/4/13/385041.html)
 
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