文/中国の大法弟子
【明慧日本2014年4月8日】私達が内に向けて探している時、あるものがいつも邪魔にして来るので、それによって、内に向かって探すことができないし、途中で諦めるしかないようなことも度々起こります。だんだん自分の執着心を覆い隠したり、外に向けて探すようになり、他の人の悪いところばかり見ていました。このいつも邪魔にして来るものは「自分が正しい、自分は問題ないと思い込む」という観念です。
師父は「修煉者にとって内に向けて探すことは最も有効な方法です」[1]と説かれました。私が理解できる範囲では、「私達は無条件で自分を探し、自分を修めます。自分の心性に問題があるかどうか、完全な人でも、内に向けて自分にどのような人心があるかを探すべきです。例えば、表面的な「正しさ」と「間違い」に執着しすぎているのではないでしょうか。師父は相手の問題を私に見せて、私にも同じ問題があると教えているではないでしょうか? 他の人の問題を解決することを焦っているのではないでしょうか。他の人の間違いばかりを見ているのではないでしょうか? このように探すことができれば、本当の「内に向けて探す」と言えるでしょう。そう考えると、必ず問題が探せますし、最終的には解決もできます。
私の友人はいつも私の足りない部分に厳しく指摘してくれます。例をあげると、私は常人状態に符合しておらず、よく怒るなど、色々あります。このようなとき、私は「あなたの言うことは私もわかっています。改めます」と応えますが、実質は納得できない気持ちがあり。自分の問題を隠して、内に向けて探していません。そして、心の中では、「あなたにも同じ問題がありますよね」と思いました。そして、相手のよくない部分だけを思い出したり、表向きは何も言わず、一応内に向けて探している様子ですが、自分のよくないところは正当化します。しかし、心から相手に指摘されたことを受け入れません。自分はあれやこれやが正しい、自分のために、言い訳すら考えました。このような思考は修煉者の心理状態ではありません。修煉者なら、まず心から相手に感謝し(相手はこんなに熱心に自分を助けようとしています!)、相手のよくないところを探すわけがありません。
実はあれらの執着心は死を恐れ、自分の命が残されるように、一生懸命私達の脳と業力、情を支配しようとしています。内に向けて探すことを妨げて、外に向けて探させるように、私達を「落ち着かず、焦り、腹が立つ」ようにさせます。また私達と会話までします。「あなたが正しい。彼が悪い。あなたはあれやこれやが良い。彼はあれやこれやが悪い。よく見てごらん。彼のだらしない様子はそれでも大法弟子なの」。彼、彼、彼、彼ばかりでした。こんな時、私達はこのような考えが自分の考えだと思い込み、邪悪に騙され、操られ、いつの間にか、感情的になってしまいました。
私達は自分を修め、自分を見ます。善意をもって、彼の身になって、彼の気持ちを考え、彼は必ずできると信じます。師父がいらっしゃり、法があります。ですから、彼に自分のことを認識させ、また自分を正すことができるよう、機会と時間を与えなければなりません。これは慈悲の内包の一つだと思います。
注:
[1] 李洪志師父の著作:『各地での説法九』「二〇〇九年ワシントンDC国際法会での説法」