寛容について
■ 印刷版
 

文/中国の大法弟子

 【明慧日本2020年12月27日】寛容とは何でしょうか? 個人的には、同修の欠点を見て、自分は動じないで、それに執着せず、逆に自分を見つめ、内に向って探すことで自分を修ることだと思っています。同修はある問題では悟っていないかもしれませんが、彼と交流する機会を見つけ、彼がそれを受け入れることができれば最もいいことだと思います。彼が受け入れなくても自分は動じることなく、彼は遅かれ早かれきっと理解できるのです。しかし、やはり修煉とは自分を修めることであり、自分の悟った理で他人に求めることはできません。

 寛容について、私は体験したことがあります。私の夫はかなり怠惰な人であり、家事をするのが好きではなく、ベッドに横たわってテレビを見るのが好きで、家庭のことは気にしない、子供たちのことも気にしない、子供たちの成績があまり良くない時、彼は私を叱ります。私は1人で内も外も、彼の親の問題も、すべてを任せられています。最初はとてもアンバランスで、人間の次元の理から彼に話しかけていました。善人とは何か、善人の行動とは何か、彼は全然聞いてくれなかったです。私は彼を変えようとしましたが、彼を変える目的は自分のためだったです。そこで考えたのが、私の修煉の目的は何なのでしょうか、大雑把に言えば、すべての衆生を救うことなのですが、周りの衆生は私の修煉から大法の素晴らしさは理解できないので、それではいけません。それから、自分を変えることにしました。彼に要求するのではなく、「真・善・忍」で自分に要求し、彼から何をされても動じなく、自分が変わるだけでした。彼は横になるのが楽なら横になり、疲れているなら横になってもいいです。彼の欠点や不足は無視して、彼の良さを見つけようと考えました。私は心から彼に優しくしてあげています。彼の喜びや悲しみを共有することにしました。それから彼は本当に変わりました。しかし、彼は触れることができない私の原則、つまり、夫は私の信仰を尊重しなければならない、夫は私を批判することができますが、私を制限することはできません。そして、状況はどんどん良い方向に変化していることが分かりました。今では夫が私の修煉に全力を挙げて支持してくれて、あちこちで大法を広めてくれています。

 義母は田舎に住んでいて、そこには大法弟子は1人もいないし、最近は会って真実を伝えるやり方も出来ていないし、法輪功に関する真実の資料もほとんどありません。私はこの地域にせめて1人の年配の同修でもいれば、この地域で真相資料を見ることができると思いました。うちの地域には1999年以前に協調人をしていた年配者がいました。出会った時からずっと、誰かが尾行していると言っていたので、何年もかけて栄光のように言い続けていました、交流も聞く耳を持たなく、私は反感を覚えました。そして、義母の家から帰ってきて、その年配の同修に会ったとき、この同修が義母の家の辺りに住んでいたら、きっと宝物になるでしょう、そこにいる衆生は救われるのではないかと、ふと思ったのです。その時、気が付きいたのです。同修はあまりにも尊い存在と感じたことです。彼女の欠点が何であろうと、彼女がまだ修煉している限り、人として修煉していますから、当然欠点はあります。返本帰真という彼女の一念が、何よりも尊いものだったのです。その一念が十方世界を震わせ、それを見た覚者は誰でも彼を助けなければならず、彼女を無条件に助けなければならないのです、これが大覚者の修煉者に対する態度です。

 他人の執着に執着している時、なぜこの同修はこんな感じなのでしょうか? どうしてあの同修はあんな感じなのでしょうか? 他の人には改善を期待し、他の人にはうまく修めることを期待しています。しかし、自分たちのことは考えていないのです。なぜ彼の執着を見るのかは考えていないのです。相手の欠点から自分を振り返って見て、自分と比較することができれば、本当に自分の修煉を向上させる機会になります。

 少しの体験で、適当でないところがあれば、慈悲なるご指摘をお願いします。

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2011/5/27/241458.html)
 
関連文章