「自我」という問題について
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 文/中国の大法弟子

 【明慧日本2021年1月29日】私たちの学法グループにいる、ある高齢の同修は、長い間、病による難関から抜け出せず、同修たちはこうした方がいい、ああした方がいいとあれこれ言う人が多く、中には強い態度を取る人もいましたが、結局、その同修は亡くなりました。

 私は、その同修をよく知っていたため、何日間か落ち込みました。同時に「正念は強くないし、悟性も足りないから、亡くなったのだ」と指摘の念もありました。この考えは間違っています。これは強い「自我」の表れです。表向きは他人のために思っているように見えますが、実は自分の悟りに執着しており「私の言うことを聞いていれば、死なずに済んだのに」という自我の念を中々放下できていません。そして、私と同じような考えを持つ同修が、他にも多くいることに気づきました。

 病による難関を乗り越えるときでも、心性の関を乗り越えるときでも、関に遭っている同修と交流するとき、基準を正さなければなりません。自分は「医者」ではないので、延々と「処方箋」の話をしても何の役にも立ちません。この点に気づかない同修は多いと思います。難関に陥っている同修にとって、このようなくどい話は全くいらないと思います。交流が相手に通じないとき、何を言っても意味がないのです。漏れは誰にでも存在します。同修に漏れがあるからと言って大げさに騒ぐ必要はありません。修煉している人には必ず不足の部分や、良く修めていない部分があり、みんな完璧なはずがありません。重要なのは、自分が一体何に不満なのか、何を心配しているのか、何を言い争ってまで顕示したいのか、何に執着しているのかなどの問題を見つけ出し、修めていくことです。自分になくても、関を乗り越えている同修も自分を探さなければなりません。何も焦る必要はないのです。

 長い間、関を乗り越えている同修が中々突破できず、全体に良くない影響を与えているのを知り、私はわくわくしながらその同修を訪ね、相手に自分の意見を言ったり、導いたりなどのことに夢中になっていました。後に、なぜ自分がこのようなことに熱心なのかと内に向けて探しました。自分はここ何年もの間、修煉において大きな難はなく、比較的に穏便に修煉していますし、同修たちの間でも評判は良いと思います。まさにこの「評判は良いと思う」ことが問題なのです。これは修煉において禁物とされていることです。同修の欠点をもって自分の長所と比べれば、どう比べても自分が良く感じるに決まってます。

 修煉者はこれらのことをはっきりと認識しなければなりません。どれほど「三つのこと」をたくさん行っても、他の人に褒められても、全ては師父のご加護の下で、大法の導きによりここまで歩んでこられたのです。師父のご加護と導きがなければ、向上することもできなかったでしょう。修煉者のすべては師父が与えてくださいました。謙虚こそ精進し、自我は後退します。冷静さを保ち、理性をもって相手と交流することで、自分の話は相手に伝わり、自分の執着心にも気づくことができ、早く取り除くことができるのです。

 他人を助けることは自分を助けることでもあり、他人を成就させることは自分を成就させることでもあります。自分を高く評価せず、同修の問題点に気づいたとき「どうすればあなたを助けてあげられる?」と聞いてあげた方が、相手もうれしく感じるでしょう。こうした方がいい、ああした方がいいと一方的に自分勝手な意見を述べていては、より同修の心を傷つけることになります。

 また、同修に指図してはいけません。物事に対する認識に正解は存在しません。相手が聞き入れてくれないなら、それはお互い同じ次元ではないことであり、何も言い争う必要はないのです。交流の失敗とは、一方的に延々と話していますが、相手が全く聞き入れてくれず、それどころか、相手に負担をかけてしまったことだと思います。多くの人はこのことに気づかず、次回、また同じようなことをするのです。交流の中で自分の不足に気づかず、向上することが出来なければ、それは時間の無駄でしかありません。

 同修を助けるには、同修の立場になって、物事を考えるべきだと思います。上から目線では相手に冷たいと思われるだけです。また、同修に個人的なことを言われたとき、他の人には言わないよう口を修めるべきです。他人に言いふらすと、それは非常に無責任な言動です。ですので、自分のことを誰にも言いたくない同修がいます。なぜなら、口の軽い同修に話すと、すぐに広がってしまうからです。同修のためにも、自分のためにも口を修めることは大事だと思います。

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2020/12/21/416749.html)
 
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