新経文を学び、自分の根本的な執着を見つける
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文/中国の大法弟子

  【明慧日本2025年3月16日】師父の新しい経文『肝心な時に人の心を見極めている』を学び、自らの修煉状態と照らし合わせて反省しました。私はどれほど、自己の意志のままに行動していたかを考えました。例えば「私は何をしたい、何をする、私はどのようにやるべきか、私は師父の大法弟子になりたい……」などです。大法のことを行うとき、多く行えば気分が良く、精神状態も良いのですが、少なくなると気分が落ち込みます。つまり、常に「私(し)」を中心にしており、長い間、それを取り除くことに注意を払っていませんでした。以前にもこの執着心に気づいたことがありましたが、修煉への決意が強くなく、徹底していなかったため、今もなお隠れたままになっています。

 修煉を始めた頃の自分の考えを振り返ると、大法を得る前に多くの気功の本を読んでいました。しかし『轉法輪』を読んだとき、心に大きな振動があり、この法門の次元が高いと感じ、修煉を決意しました。つまり「この法門の次元が高い」と感じたことが、私が大法の修煉を始めたきっかけであり「高い次元に上がること」が当時の修煉の原動力でした。当時、私は30代で、幼い頃からほとんど病気をしたことがなく、真理を追求し、高い次元を目指すことが人生の原動力でした。しかし、これは旧宇宙の根本的な属性、私心に基づいた「私」の中の「自我」の表れでもあったのです。

 この「自我」は、私が20年以上修煉してきた過程の中で一貫して存在していました。1999年以前の個人修煉の時期、高い悟りを求めるあまり、自ら心より魔が生じた人について行き「高次元の理」を悟ろうとし、道を踏み外し、つまずいたこともありました。法を正す修煉の時期には、この「自我」から生じた事を成し遂げようとする心が働き、常に「多く行いたい、大規模に行いたい、大きく貢献したい」と思い、心を落ち着けて法を学び、内に向かって執着を探す時間をほとんど放棄してしまいました。仕事の合間には、大量の資料を作ることに専念しすぎたため、資料が滞留し、邪悪に隙に乗じられ、不要な損失を招いたこともありました(もちろん、人手不足や緊急の状況下では例外です)。

 「自我」に執着していたために、自我を実証しようとし「高次元へ上がりたい」という私心から、さらに嫉妬心や自惚れといった他の心も生じてきました。そのため、他の同修の長所や、修煉がよくできている点、物事をうまく進めている様子を見ると、心の中にわずかな「ねたましくて切ない」感覚や、「取り残されたくない」という思いが湧き上がることがよくありました。そうして常に「前へ出よう」、「先に進もう」、「他人を顧みない」という衝動に駆られていました。表面的にはとても精進し、捨てることができ、よく苦しみに耐えているように見えますが、実はその中に隠れている私心によって、自分自身や他人を欺いていたのです。

 そうですね、師父の説法を学ぶことで、私たちは常人社会の名声・利益・情はすべて幻であり、虚像であると理解しました。しかし、修煉における威徳、法を実証し衆生を救う過程での威徳は、永遠に滅びることのないものです。だから、この狡猾な私心は修煉の中に巧妙に隠れていました。それは「私」という存在が姿を変えただけであり、自分自身を欺き、神々を欺き、さらには創世主までも欺こうとしているのです。それは、法を正す力を利用してこの劫(ごう)を乗り切ろうとするものであり、それ自体が罪なのです。この「私」がある限り、それは旧宇宙の理の中に留まることを意味し、いつでも邪悪に隙を乗じられ、妨害や迫害を受ける理由となってしまうのです。

 ここ数年、私の周りに2、3人の同修がいて、彼らも資料作成を担当していました。仕事量が非常に多く、朝から晩まで忙しくしていました。一方で、同じプロジェクトに関わる別の同修は、比較的余裕のある状態でした。しかし、その余裕のある同修が何度も「仕事量を分担しましょう」と申し出たにもかかわらず、忙しい同修たちはいつもそれを拒んでいました。そのため、申し出た同修は困惑し、なぜ受け入れてもらえないのか理解できずにいました。ところが後になって、彼らの身体に異変が現れるようになりました。中には、ついに作業を続けられなくなってしまった同修もおり、結果として設備も撤去せざるを得なくなったのです。

 そのとき、それらの出来事を目にし、耳にしても、自分自身を深く省みることはありませんでした。「なぜ自分がこれを見聞きするのか?」と考えることなく、ただ外に目を向け「それは他人の問題だ」と思っていました。しかし、やがて自分自身にも大きな妨害が現れるようになりました。それでも、まだ徹底的にこの心を取り除く決意がつかずにいたのです。

 師父は「大法がこの世で人を救っているのです!」(『肝心な時に人の心を見極めている』)とおっしゃっています。

 大法は、新宇宙の機制で利他的であり、公のためにあるのです。私たちがあらゆる私心を完全に手放し、法に符合していたとき、初めて人を救う最も良い効果を得ることができます。なぜなら、衆生を救うのは私たちではなく、法そのものだからです!

 師父が望まれているのは、すべての大法弟子が向上し、それぞれが法の中で成熟することです。一人ひとりが自分の道を歩み、使命を果たし、自分が責任を負う範囲の衆生を救い、最終的にそれぞれが元の場所に戻ることです。それは宇宙全体の大円満であり、決して一部の人だけの円満成就ではありません。師父の法を正す基点に立ち、師父の願いを成就することは、すべての大法弟子が果たすべき義務であり責任です。 もしも個人を過度に強調すれば、それは全体の向上に対する妨げにもなりかねません。

 師父はこうおっしゃっています。「これは末後、世の人を救っていると同時に大法の内部を一掃しているのではありませんか? 皆さんはこのように感じていませんか?」(『肝心な時に人の心を見極めている』)

 心の中で「捨てる」ことのできないものを捨てることが、本当の捨てることです。この「捨てる」ことは、単に常人の利益の中での捨てることだけでなく、修煉の中での捨てることも含まれており、それこそが漏れのない捨てることと言えます。

 (編集担当責任者:李明)

 
翻訳原文(中国語):https://www.minghui.org/mh/articles/2025/3/11/491422.html
 
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