文/オーストラリアの大法弟子
【明慧日本2024年11月19日】
師父、こんにちは !
皆さん、こんにちは!
私は修煉を始めて13年になります。私はようやくこの1年間、師父の法に示されているように、師父がさまざまな環境や大法プロジェクトを通じて、私の執着を取り除き、魔性をさらけ出して佛性を充実させる手助けをしてくださっていることを実感しました。ここで、その一部を皆さんと分かち合いたいと思います。
一、神韻公演の準備期間での修煉
私が取り除くべき最大の執着は「自我」です。今年の神韻公演のプロモーション中、この「自我」への執着が非常に際立って現れました。例えば、「自己弁解」や「私は正しい」という形で何度も現れ、自分でも驚くほどでした。正直に言って、この執着は私をしばしば困惑させました。議論中や何かに反応しているとき、口を開こうとしたところで(まるで体の外から自分を見ているように)「それは私がやるべきことではない 」「この人は誰だ?」と気づくことがありました。特に困難な問題に直面したときには、その「自我」が顕著に現れました。
あるとき、神韻芸術団の同修の一人が、なぜ私たちのバスが何度も問題を起こすのか尋ねてきました。私の「自我」は自分を守りたくなり、すぐに「いくつかのことは私たちの手に負えないことだ」と説明しました。言葉が出た瞬間、前日に私と接触があった会場スタッフの一人が私の弁解を聞いていることに気づきました。彼女の表情から、私に対する尊敬の念が失われたことがわかりました。私はすぐに、自分の行いが間違っていると認識しました。それは修煉者としてのあるべき姿ではなく、修煉者の言動としてふさわしくないです。
またある時、出演者が初公演前に空き日があり、私が知っている神韻団員と観光をしていました。彼は私が初めて聞く話をたくさん教えてくれました。それは秘密の情報ではなく、非常に興味深い事実やエピソードでした。その後、私は妻ともう二人の学習者に、そこで聞いたことのいくつかを誇らしげに話し、少し権威者のような口調になっていました。その後、同修でもある妻が私の話には『自我』があふれていると言いました。彼女は「あなたは他人から教えてもらったことを伝える時にいつも、まるで特別な人間、自分が重要だと自覚しているように聞こえる」と言い、また、「自我」は魅力的な品性ではないと指摘しました。彼女の言葉は耳に痛いものでしたが、真実を述べているとわかりました。反省してみると、「自我」は魅力的でないだけでなく、とても醜いものだと気づきました。私は自分の行為と「自我」に対して嫌悪感を抱きました。 神韻公演団が去った後、私は真摯に師父にお願いし、「自我」や「自己証明」に対する執着を取り除いていただけるよう祈りました。これまで長い年月にわたって修煉していたので、この執着は必ず取り除かなければならないと認識しました。その時は、師父がすぐに助けてくださるとは思っていませんでした。
二、職場環境での修煉
神韻公演団が去ってから2週間後に、私は転職し、新しい職務に就きました。普段なら選ばない仕事でしたが、以前にも小規模ながら似たような仕事をしたことがありましたので、何とかなると思いました。 前の仕事では、私は専門家として見られており、それはもちろん私の「自我」が育まれました。しかし、新しい職場ではそうではなく、ほとんど素人のように扱われました。最初のうちは、私が新人だったこともあり、周囲もあまり私に期待していなかったため、物事は順調に進んでいるように見えました。しかし、しばらくすると、上司は我慢の限界に達しているのが分かりました。私の仕事が遅いとか、出来がよくないとかと思われました。彼は私の仕事に対する不満をはっきりと口にするようになりました。
この悩みを同修である妻に話すと、彼女は私が師父に「自我」を取り除いていただけるようにお願いしていたことを思い出させてくれました。そして、「師父はまさにそのことを手配してくださっているのではないか」と言い、「大きな執着を取り除くために師父にお願いしたのだから、そんなに簡単にいくとは思わないでね」と言いました。
私たちは一緒に師父の言葉、「氷の厚みが三尺に達するには一日や二日ではない」(『各地での説法十』「マンハッタン説法」)を再び学びました。そして、私の「自我」は三尺の厚みがある氷のようなもので、それがすべてなくなるまで、少しずつ削り続けなければなりません。
これらのことが、この厳しい環境をより大切にすることにつながりました。 時には屈辱を感じることもありますが、この環境は師父が按排してくださった貴重な修煉環境だと悟ることができました。仕事中、妻が時々私にメッセージを送り、状況を聞いてくることがあります。私は「まだ大変だ」と返し、すると彼女は氷の絵文字や「削る、削る、削る」という文字を送ってくれて、このすべてが修煉のためであることを思い出させてくれました。それは私たちの間の冗談のようなものでしたが、試練を乗り越えていく中でとても良いリマインダーとなっています。
ここ数か月、私は出勤時に、まるで師父が講法の録音で話していた人のように、心はウサギが胸の中で飛び跳ねているように感じていました。胸がドキドキして、まるでウサギが何匹も跳ね回っているみたいです。後で内省してみると、これは私の『自我』がぶつかっているからだと気づきました。
時々、上司は私に対して、彼の基準に達していない、失望しているから、何度も何度も同じことを教えなければならないと明確に伝えます。また、彼に何かを尋ねると「もう言っただろう!」と言われることもあります。これらはすべて私の『自我』を磨いているのです。同時に、私は母に対する自分の態度についても内省し始めました。 父は数年前に亡くなり、それ以前、母は父に多くのことを頼っていました。特に携帯やパソコンでの操作に関することはすべて父に任せていました。
父が亡くなった後、母は頻繁に私に助けを求め、同じ質問を何度も繰り返してくることがあり、その度に私は母に対して苛立ちを感じていました。そして、自分が母に対して取っていた態度が、今の職場で受けた上司の態度と同じだと気づきました。母に対してもっと善意を持つべきであり、上司に対しても、彼が上司としての大きな責任を背負っていることを理解し、思いやりを持つべきだと認識しました。
その職場での日々は本当に長く感じられましたが、とても謙虚になれる貴重な経験でした。独りよがりにならず、言い訳をせず、修煉者として問題に対処するべきだということを教えてくれました。緊張感のある環境と、修煉の一環として捉えようとする正念が、私を支えてくれました。もし修煉をしていなかったら、数か月前に辞職し、この向上する機会を逃していたでしょう。
その期間、私は上司に真相を伝えました。政府に真相を伝える活動をしているため、時折、職務を離れて地元の議員に会う必要がありました。上司が私の行動を誤解しないように、地元の議員に会いに行く理由を説明し、法輪大法とその迫害の真実についても伝えました。それは自然な流れで真相を伝える機会となりました。後日、私は蓮の花を彼の娘にプレゼントし、彼はとても喜んでくれました。
私の仕事は予想より早く終わりました。その後、別の同修に職場で受けた批判や、仕事が遅いと指摘されたこと、残業の苦労などを話しました。
その同修は、師父の講法の一節を私に送ってくれました。
「長年の経験から、皆さんはこのことを深く体得しています。どんな仕事に就いていても、メディアの大法弟子も含めて皆、このことを分かっています。緩まず修煉をしていれば、多くの場合、少ない力で大きな効果をあげることができます。ですから、私たちは修煉をおろそかにしてはいけません。これは何よりも重要なことです。」(『各地での説法十五』「二〇一八年新唐人と大紀元法会」)
この一節を読んだ時、私は本当に恥ずかしい気持ちになりました。その期間、私は毎日仕事から帰ると心身ともに疲れ果てていて、休みとリラックスをしたいと感じていました。その結果、学法や煉功に取り組むことを怠ってしまいました。職場環境が師父の私の修煉のための安排であることを理解していながら、家に帰るとくつろぐことを求めてしまい、真にエネルギーを増やせる学法と煉功を疎かにしていました。
それ以来、毎朝起きたら学法と煉功を欠かさず行い、言い訳をしないように心がけています。
(続く)