文/オーストラリアの大法弟子
【明彗日本2024年11月20日】(前文に続く)
三、政府に真実を伝える過程での修煉
仕事上の挑戦を経験しつつも、私は他の様々な大法プロジェクトにも参加していました。今年初め、私たちの優先事項の一つは、より多くの議員に接触し、法輪大法の集団や中国で起きている迫害の事実について、政府議員により深く理解してもらうことでした。
地元では、この活動は遅々として進んでいませんでした。少なくとも私はそう感じていました。当初は、何も起こっていないように思えたので、私も少し否定的な気持ちになりました。その後、私は考えを改め、不平を言うのをやめて自分自身で行動を起こすと決めました。
そこで、地元の国会議員にどう接触しているかを他の同修(修煉の仲間)に尋ねたところ、彼らの多くも何から始めればいいのか、何をすればいいのかわからず、手紙を携えて議員の事務所に現れたり、議員に何かを手伝ってくれるよう頼んだりすることは、適切ではなく、効果的ではないと感じていました。私たちはアプローチを変える必要がありました。前向きな変化を見たければ、まず自分が行動すべきだと気づいたのです。地域での活動は、地元の学習者が自身の力を高めながら取り組むのが最も理にかなっていると考えました。
私は、顧客向けにセミナーを開催していた経験があったので、地元の同修に向けたセミナーの開催を提案しました。この形式であれば、参加希望者が一緒に学べると考えたからです。初回のセミナーはとても筋道が明確で、短期・長期目標を決め、議員と気軽に面会するためにはどのようにしたら良いかを考えました。英語を話せる西洋人や中国人、ベトナムの学習者も加わり、私たちを阻む様々な要因について話し合いました。ある同修は、議員に会うこと自体が難しくなるのではなく、何かをお願いするようなアプローチが難しいと感じていると述べました。これは重要なポイントであり、私たちの方法を再考する必要性を示しています。
その後、セミナーは2週間に1回のペースで行われ、参加する同修も増えていきました。セミナーもよりカジュアルになり、同修は自身の状況や必要なサポートについて自由に話せるようになりました。このプロセスは私たちにとって新しい経験であり、皆の成長を助けるものでした。私も大いに恩恵を受け、自分がコントロールしたい、あるいは自分が望んでいるセミナー運営の形式や構造にこだわるのではなく、同修に対して、批判や評価をしずに交流できる優しい環境を作ることが大切だと実感しました。同修たちの恐れや執着心を共有することを歓迎し、共に善意を持ってそれを克服できるように努めました。この方法により、同修たちは安心感を覚え、自分が経験している課題や難しいところについて気軽に話せるようになりました。
私たちは、各同修の具体的な状況、過去に議員と行った活動、その結果について話し合い、個々の事例に応じた改善提案を出しました。というのは学習者や議員の状況はそれぞれ違うからです。ある同修は、最初に議員に何を話せばいいのか分からないと感じていましたが、私たちは皆でロールプレイを行い、彼女が議員との対話のシミュレーションをしました。彼女は内向的な性格で最初は難しく感じていましたが、多くの同修のサポートや積極的なアドバイスを受けて自信をつけました。その後、彼女は交流したとき、国会議員がライブ・イベントのためにショッピング・センターに来たときに会いに行ったと話しました。彼女は国会議員のスタッフのひとりと話し始め、個人的なつながりができ、最終的にそのスタッフが議員との面会を手配してくれました。
その場にいた同修たちからの提案に反映された集合的な知恵を目の当たりにして、本当に驚きを隠せませんでした。良いアイデアが次々と生まれ、実行可能で相手に配慮した戦略ができ上がり、プロジェクトに対してもより前向きの姿勢が生まれました。その結果はほぼ即効性があり、毎週同修がこのグループに戻って来て自分たちの良い体験や議員から得られた建設的、実行可能な提案を共有し、まるで雪だるま式な効果が現れたようです。
さらに多くの同修が地元の議員に自己紹介し、つながりができ、議員とのごく自然なコミュニケーション方法をいろいろと見つけることができました。こうした広範な戦略によって、私たちはどんな種類の地域活動に参加し、地域に貢献できるかについて、さらに検討を重ねることになりました。私たちは多くのことができることに気づきました。ある議員からは、地域で私たちの姿が見えないと言われました。
この件について話し合った後、数人の学習者がチームを結成し、市場や地元の地域イベントで法輪大法や折り紙の蓮の花を展示するブースを予約し始めました。これは数年前に行っていたことですが、他のプロジェクトに追われてここ数年は減っていた活動です。これらの活動は英語を話せない同修にも参加の機会を提供し、彼らはブースで法輪功の功法を披露したり、パンフレットを配布したりできます。また、他の学習者は子供たちが蓮の花を折るのを見守る親たちに法輪大法を紹介できます。これは地域で広く法を広める良い方法です。多くの議員が地元の大規模な地域イベントに参加するので、私たちもそこでブースを出せば、自然に議員と会い交流することができます。
セミナーが終了してから、数人の同修が「とても役立った」と言って、セミナーを主催したことに感謝してくれました。こうしたフィードバックを聞いて、私はとても嬉しく思いました。自分が地元政府の活動に成果が出なかった時に行動を起こし、良い結果を得られるように手助けできたからです。ただ、その時、自分の歓喜心があることには気づきませんでした。
セミナーの後間もなく、多くのクイーンズランドの学習者がキャンベラでの活動に参加することになりましたが、私は仕事の都合で行けませんでした。後日、キャンベラに行った学習者が学法の場で自身の体験を共有しました。大法の学会のあるメンバーがいくつかの活動の成果や他の成功活動を紹介しました。このような感動的な話を聞いても、私は前向きな気持ちになれず、ほとんど無関心で座って地面を見ていました。隣に座っていた妻は、すぐに私の様子がおかしいことに気づきました。後で妻にどうしたのかと聞かれました。私は、心の底では自分もキャンベラに行って最前線で活動するべきだと感じていることを認めました。私は、活動の成功に自分も貢献したと思っていましたが、その功績はキャンベラに行った学習者のものとされてしまいました。そこで私は、自分の魔性が再び現れたことに気づきました。嫉妬心や自我への執着、そして自分を証明しようとする心です。私は政府活動への参加を、法を正す時期の大法弟子としての責任ではなく、自分の名誉を求めるものとして捉えていました。
さらに内に向かって探して、なぜ自分にこのような反応が生じたのでしょうか? それまでのセミナーに対する称賛を受けた時、その称賛が私の「自我」と「独りよがり」を育み、全体の進歩を自分の功績だとみなしてしまっていたことに気づきました。
これはすべて、私が仕事で直面していた多くの試練と同時に起こり、常に私の「自我」を削り取ってくれると気づきました。仕事の環境で「自我」が弱まったとしても、修煉の環境では時折顔を出していたのです。
四、大紀元のイベントでの修煉
最後に、最近の体験についてお話ししたいと思います。先日、私はある大型地域イベントで、大紀元のブースでお手伝いをしていました。このようなイベントでは英字版の大紀元を配っていますが、最近では子供たちに風船も配り始めました。そのため、子連れの家族にとても人気があり、保護者に大紀元を紹介する機会が増えました。ブースの前にはスタンドを設置しており、そこに膨らませた風船が飾られています。そのスタンドはまるで風船ツリーのように見え、各風船は小さな棒に結び付けられ、スタンドに差し込まれて固定されています。
私はブースの後ろで風船を膨らませていましたが、コーディネーターは前に立って風船を風船のツリーに差し込む係をしていました。その日は風が強く、いくつかの風船が飛ばされ、私たちは風船が飛ばされないように何度も追いかけなければなりませんでした。風船を固定する棒がスタンドにしっかりと差し込まれていなかったため、風船が飛びやすいことに気付きました。私はコーディネーターに、風船の棒をしっかり最後まで押し込んでいたら、飛ばされなかっただろうと伝えました。おそらく彼は、人々と話したり新聞を配ったりでするのが忙しく、風船のことに気を配る余裕がなかったのかもしれません。しかし、さらに多くの風船が風で飛ばされ、私はもう一度彼に伝えなければならないと思いました。
再び風が吹き始めて、私はそこに行って、風船の棒を先端に突き刺して、彼らが何をすべきかを伝えなければと思いました。私は黙って物事を円満に解決し、現状を改善する方法を考えるのではなく、自分が正しいと思い込んでいて、なぜコーディネーターは私の意見を尊重してくれないのかと考えました。
私は風船を膨らませている場所からすぐに立ち上がり、他人を正そうとする思いで頭がいっぱいでした。最初の一歩を踏み出した瞬間、テーブルを覆っていたクロスに足を取られて転び、隣のテーブルにぶつかりました。その拍子に、二つのテーブルの上に置かれていたものがいくつか落ちてしまいました。私は勢いよく転んで、両手と両膝を地面につけてしまい、濡れた地面に倒れ込みました。立ち上がると、両手は泥だらけで、ズボンも汚れていました。周囲の人々が「大丈夫ですか?」と心配してくれました。私の体は大丈夫でしたが、「自我」がまた打撃を受けたのです! 私はその場に座り、すぐに「ほら、自分の「自我」は自分が正しいことを他人に示したがっている。それがあなたへの教訓なんだ」と考えました。
転んだことは、私に謙虚さを感じさせ、そして、私はまだ完全に“自我”を手放していないことを改めて思い知らされたのです。
結びの言葉
この6か月間で、私は多くの「自我」を取り除くことができたと感じています。『西遊記』で描かれているように、何度も繰り返される試練や挑戦が、私の向上を助けてくれました。一つの関門を乗り越えると、また次の関門が現れるのです。これらの試練は、私がさらに謙虚になり、慈悲心を持てるようになるのに助けてくれているのだと気付きました。以前は他の修煉者に対して批判的な態度を持っていたかもしれませんが、今では彼らに対してより多くの善意を持つようになりました。また、大法の活動で常人と接するとき、彼らが世の中の不公平について語るときも、私はより慈悲深く対応できるようになっています。
師父が按排してくださっていることに感謝し、修煉の向上を願う私の祈りに応えて守ってくださっていることに感謝します。まだまだ道のりは長いですが、私は修煉の道を絶えず前進し、向上し続けていることを実感しています。
師父に感謝いたします! 皆さん、ありがとうございました!