精進の原動力
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文/海外の大法弟子

 【明慧日本2021年3月21日】中共ウイルスの中国国内で感染が爆発し始め、全世界に拡大し、アメリカ大統領選の期間中から、一部の同修の交流文章に未来に関する予測に触れた内容がありました。このような文章は比較的注目されやすいのです。初めてこの種の文章を読んで、私は時間の緊迫を感じ、もっと時間を大切にして人を救い済度しようと思いました。しかし、時間の推移につれて、私は衆生を救い済度することを怠るようになり、頭に一つの疑問が浮かびました。「修煉者が精進できる原動力はなんだろう?」

 師父は「もし、修煉がとても良くできている大法弟子が、理性的に大法とは何かを認識することができれば、きっと力を入れて行ない、この面において緩んでしまうことは決してありません。逆から言えば、精進していない弟子も法を勉強しており、法がとても素晴らしいと分かっていますが、法に則っておらず、正念も足りないので、認識はやはり高まらないのです。つまり、本当に法の貴重さを理解することができないから、なかなかやる気が湧いてこないのです」[1]と説かれました。として

 これは修煉に対する固い決意を持てない学習者の質問の師父の回答です。この説法が発表されてから数年経過しても、私は依然として質問したその学習者と同じ悩みを抱えています。師父のこの回答に対する私の理解は曖昧でした。自分は明らかに大法は素晴らしいと知っていますが、なぜ大法が貴重であることを理解できず、正念が足りないのでしょうか?

 数年前に同修とどのように学法すればいいのかについて交流して、自分の学法の質を上げることが出来ました。簡潔に言うと、学法は形式に流されず、時間や数量に拘らず、質を重んじることです。通読にしても、法を書き写すにしても、『轉法輪』でも新しい経文でも、その内容を心に留めておかなければなりません。たとえ1時間に1段落しか学べなくても、30分しか学べなくても、必ず法を心の中に留めてこそ、法を学んだことになります。

 それ以来、学法に身を入れることの素晴らしさ、自分の変化を感じることが出来ました。去年、私は心性の関に遭遇した時、涙を拭きながら夫に「今の私は情けなく見えますが、自分の歩むべき道が何処にあるのか分かっています。心の中で法に同化した部分はどんなものでも揺り動かせないのです」と言いました。私は真に心の中にある非常に純潔な物質が盤石のように固いことを感じることが出来、その物質は私の後天の観念、表面にある情緒に触れることができないのです。

 つまり、精進できる原動力は真に大法が貴重であることを理解できた認識からだと思います、法を正す時間に執着する気持ちではないと思います。同修の皆さん、胸に手を当てて自問してみて下さい、私達の毎日の時間の配分を見て、もし法を正すことが今日で終わるのなら、自分が精進できなかったことに後悔しませんか? 逆にもし法を正す時間があと50年あるならば、私達は現在行っていることは目先の効かないやり方で、極端に走ったやり方だと感じるでしょう。時間を配分する基準が法を正す時間への予測と拘りに基づいたものであれば、それに応じた妨害が現われてきます。なぜならば、動機が不純で、その動機の土台が浮いているからです。内心にある宇宙大法を敬う気持ちから生まれた原動力だけが金剛不壊であり、宇宙と共存しているからです。

 師父は「修煉の中で、皆さんは自ら真に着実に向上することによって、内面に巨大にして本質的な変化を生じさせているのではなく、わたしの力に頼り、外在する強大な要素を頼りにしています。これでは永遠にあなたの人間としての本質を佛性に変化させることはできません。もしも、みな一人一人が心から法を認識することができれば、それこそが威力無辺の法の体現であり─強大なる佛法のこの世での再現なのです!」[2]と話されました。

 個人の理解ですが、私達の生命は真に大法に同化した時、同化された部分は物質であり、その物質は人間の身体を通じて現れてきます。修煉者の表に顕れたものは、例えば大法の導きの下で修め得た自分の言動、特に魔難と試練に遭遇した時の自分の言動です。真に法に同化してこそ、はじめて内心を泰然自若に保つことが出来るのです。以上は自分が今いる次元での師父の法に対する認識です。

 注:
 [1] 李洪志師父の経文:『ロサンゼルス市法会での説法』
 [2] 李洪志師父の著作:『精進要旨』「警告の言葉」

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2021/3/3/421571.html)
 
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