終点のない終点
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2021年3月30日】明慧ネットに「正法の終わる時間についての考えと預言」が掲載された後、私は動揺しました。しばらく経ったら落ち着いてきて、修煉の終わりに執着する心がこの文章によって心が動じてしまったことに気づきました。もし、まだ8年あるとしたら、自分にとっては本当に良いことです。現在の自分の修煉状態には不満があり、たくさんの不足があるため、補うには良い機会です。しかしそれと同時に思ったのは、もし本当にあと8年あるのであれば、慈悲で偉大な師父は弟子と衆生のためにさらにどれほど耐えなければならないのでしょうか。

 表面から見れば、終わる時間への執着を放下したように見えますが、実はそうでもありません。自分はただ終わる時間を8年後に延ばしただけで、終わる時間への執着そのものを全然放下していません。

 この文章を読んだある同修は心が落ち着かなくなり、終わる時間への執着心を隠そうとしています。いずれにせよ、この文章の現れは、一部の同修の終わる時間への執着心を暴露させているので、本当によいことだと思います。

 ある同修は終わる時間への執着心を大きく養い、自身でもなかなか気づきません。周りの大多数の同修には多かれ少なかれこのような人心があります。新唐人テレビに執着している同修、各種の予言に執着している同修、常人社会の形勢変化に執着している同修は、みな終わる時間への執着心に関係していると思います。

 さらに恐ろしいことに、たくさんの同修はこの執着心に支配されたうえで、三つのことをしたり、自分の生活と修煉環境を段取りしているのです。あと数年で終わると思っているので、家のリフォームをするべきだったのにリフォームしなくなった同修や、自分の貯金を計算して十分だと思って仕事を探さなくなった同修もいれば、あと数年で終わるから、結婚相手を捜そうとしなくなった同修もいます。終わる時間に執着するこの人心によって、我々は知らないうちに、たくさんの極端なことをやってしまいました。このような極端なやり方によって、修煉していない家族と世の人々が私達に対して理解できないだけではなく、逆に大法の素晴らしさを帳消にしています。

 特に終わる時間に執着する人心で真相を伝えると、人を害するかもしれません。ある同修は常人に真相を伝えるとき「共産党は1年以内に解体するので、急いで脱退してください」と自分の推測で勝手に結論を出したりします。ある同修は「大淘汰が間もなく始まる」などなどの極端な言い方をしたりします。ある同修は、はっきりとは言わないものの、話した内容にそのような要素が入ったため、その話を聞いた常人に、世界の末日がすぐにでもやってくるように感じさせます。現在の中国人は、このようないわゆる幸せな生活の中で快適に楽しく生活しています。ですから、このような話をすれば、喜んでいる人の頭に冷水をかけたかのように感じさせるため、彼らに受け入れられるはずがないでしょう。私達の地域で三退はしたものの、同修が伝えた真相を信じなくなった常人がいます。

 私の見識では、終わることへの執着心はすでに大法弟子が次元を高める際の主要な阻害となっています。現世の人々の多くも今日の邪悪をはっきり認識できるようになりました。この人心により現われた極端なやり方と言行はすでに世の人々が大法の真相を理解し、大法の素晴らしさを認識することを阻んでいるのです。

 終わることに執着する人心の裏に何があるのでしょうか? もし迫害がなければ、修煉はとても楽しいもので、終わることに執着したりするのでしょうか。絶対しないでしょう。苦を舐めたくない心、苦を楽と扱わない心が終わることに執着しているのです。それでは苦を舐めたくない心に何が隠されていますか。自我への執着が見えました。ですから終わることに執着する根本は、後天的に形成された自我と私心にあります。自我と私心を取り除けば、終わることへの執着心を取り除くことができるはずです。

 自我に執着しているのは真の本性ではありません。私達の本性は大法に同化して他のための生命、師父が求めたことだけを圓融させる生命です。法を正す中で、法を正す時期の大法弟子と師父に認められた時、私達の生命の根本は師父に作り直されました。私達の真の自我は、完全に真・善・忍で構成された他のための生命で、師父が求めたことと大法を圓融させる生命になりました。真・善・忍に従っていないのは、みな旧い要素で偽の自我なのです。

 2000年旧正月のある日、同修と約束して一緒に河岸へ法を広めに行きました。その日数十人の同修が河岸に集まって煉功しました。ちょうど抱輪していた時に警察が来ました。目を開いて見ましたが、それらの警官達が小さすぎて、私の足の高さにも及びませんでした。警察を気にせず、煉功を終えてから家に帰りました。その日の夜、一つの夢を見ました。「夢の中でシュレッダーに似た大きな機械がありました。声が聞こえて、機械に入るよう私に呼びかけました。少し躊躇しましたが、機械に入り込みました。すると機械が直ちに起動し、自分の体は粉砕され、体がミクロの物質に変わって充満し、思惟だけが残り、そこで目が覚めました」。いま分かったのですが、師父は私の生命の根本から作り直してくださいました。その時から、真我はすでに完全に新宇宙の生命に変わりました。

 自我に執着することは未来に入れない要素であり、私達の本性ではありません。私達のすべてがすでに新しくなったのです。しかし悟性の低い現われとして、時々私達がまだ取り除いていない旧い要素と偽の自我に左右されてしまうことです。数日前に師父の『論語』を読んでいた時「それまでは、第一段落の宇宙の構造に対してずっと旧宇宙の思惟で理解していました。自分が間違っていて、師父は新宇宙の構造を説かれています」と急に悟りました。瞬時に自分の思惟が完全に変わっており、再度『論語』を読むとき、意味も完全に変わりました。何もかもが新しいものになりました。「師父はすでに法を最初の「成」の時期まで正しました」と自分の次元から悟りました。

 法を正す時期のすべての大法弟子の真我は皆新しい生命になったと私達はすでに分かっています。終わることに執着するのは、偽の自我の考え方で、私達が修めて取り除くべきものです。偽の自我に左右され、師父が法を正すことを阻むことのないように気を付けなければなりません。

 頭の中にずっとこのようなイメージがあります。「自分の修煉は運動場で走って周回しているかのようです。師父はそこに立っています。私が耐えられなくなった時、慈悲なる師父は「頑張ってください、もうすぐ終点ですよ」と教えてくださいます。すると私は自信を持って頑張って走るようになりました。しかし数周走ってもまだ終点に到達せず、また力がなくなりました。ちょうどその時、慈悲なる師父は「頑張ってください、間もなく終点ですよ」と再び励ましてくださいました。私も再度勇気を持って頑張って走るようになりました。このように走っていると「もう師父に聞いてはいけません」と思うようになりました。このように走って走っているのですが、体が益々軽くなり、走るのも益々容易になり、この時自分にとって終点に着くかどうかはもう実質的な意味を持たなくなりました。自分はすでに終点に着いたからだと分かっているからです」

 終わる時間に執着しないことを師父が悟らせてくださいました。「師父は何でも把握されています。弟子達を励ますために、終わる時間への執着を助長しているのではなく、魔難の中の同修を励ますために、弟子達に時間を大切にさせ、精進させるために、時間の緊迫さを幾度となく説かれたのです。私は人心で理解し、知らないうちに終わることに執着する人心まで生じてしまいました」とやっと気づきました。

 ある学習者は「いつも終わる終わると言っているのに、なかなか終わらないじゃないか!」と疑い、恨む心が生じてしまいました。考えてみてください。もし迫害の当初に、巨大な魔難に身を置いている弟子達は、迫害が今日まで続くと師父に教えられたら、どれほど多くの学習者は巨大な魔難とこの長い期間を耐えられずに落ちてしまうのでしょうか。その時、私達はまだたくさんの人心を取り除いていないからです。師父が行ったすべてはみな弟子を成就させるため、未来を成就させるためです。弟子としての私達が期待を裏切っており、次元を高めることが遅いため、師父は私達を再三励ましてくださったのです。時間が長ければ長いほど、師父がますます多く耐えなければなりません! 師父の苦心を理解できないどころか、人心で終わる時間に執着したり、恨む心まで生じてしまい、本当にあり得るのでしょうか。

 大法弟子として真に師父のために考えるのなら、各種の予言や予測への執着や、終わる時間への執着、自我に対する執着を放下するべきであり、純粋に心を修めるべきで、衆生を救い済度するべきだと思います。これこそ真に師父のために考えており、師父が私達を成就させるために心血を注ぎ耐えられたことを大切にしているのです。本当にここまでできるのであれば、私達はすでに基準を満たしており、法を正すことがいつ終わるかは私達に対して実質的な意味を持たなくなります。

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2021/3/5/421690.html)
 
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