「注目度」から思いついたこと
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文/海外の大法弟子  

 【明慧日本2021年4月6日】明慧ネットの記事に「注目度」という情報が追加された後、より注目されている記事にけちを付けて憤慨する修煉者がいました。同修の中には、注目度の高い記事の中には、自分の未採用の投稿記事と比較しても劣るものがあると考え、編集部まで非難してしまう人がいます。同修の中には「みんなが読んでいる記事も、読まないと後れてしまうので、自分も読まないといけない」という興味本位の人もいました。個人的には、明慧ネットに投稿された記事の「注目度」は、海外の同修の修煉状態を如実に反映しているのではないかと認識しています。

 海外の修煉者というと、海外にいる多くの中国出身の修煉者ということで、中国本土にいる修煉者は含まれません。これは、中国本土の大多数の大法弟子は、セキュリティや技術など様々な理由で直接「明慧ネット」にアクセスできず、間接的に「明慧ネット」から情報を得ているからです。

 これが海外の修煉者の実践状況を反映していると言うのは「注目度」の数字が高い記事には、好奇心や善行、そして個人的な興味が反映されているものが多いからです。それに対して、本当に人を救うこと、迫害に反対すること、三退を進めることを目的とした記事や、真実を語る上で非常に役立つ様々な真実の商品(記事、週刊、動画など)は、フォロワー数が著しく少なく、一定数以下に留まっているものが多いのです。毎日のように真実を語る最前線にいるのは、この人たちでしょうか? 注目度というのは、私たちの三退の数が長年伸び悩んでいた理由を反映しているではないでしょうか。

 迫害記事の注目度はさらに低いのです。迫害が始まった当初は、多くの人が「不愉快だ」「残酷すぎる」と言って迫害記事を嫌がり、読まず、大法の素晴らしさを堪能できるような交流記事、海外報道、文化、音楽、映像などの記事だけを好んで読んでいました。問題は、海外の修煉者にとって迫害は本当にあなたと何の関係もないのでしょうか? 中国本土の修煉者が迫害されても気にしないのですから、自分が迫害されても、他の人が無関心でいていいのでしょうか?

 別の言い方をすれば、22年後の今日は、私達の見た通りです。反迫害は、中国本土の同修への迫害を緩和し、悪を取り除くことができ、大きな作用を果たしました。しかし、なぜ多くの人が迫害に関する記事を「読まない」という考えや習慣を変えず、変わらないままなのでしょうか? 修煉とは、観念を打破し、善を唱え、心性を向上することではないでしょうか?

 他にも少し聞いたことがあります。 たとえば、パレードは非常に熱心ですが、通常は1対1で、面で三退を勧めて真実を伝えること、あまり興味がないようです。電話で真実を伝えるグループは、1人または2人の同修は原稿を読んで話していますが、他の数十人はただ聞くだけです、それ学習していると言っています。勉強は確かに必要ですが、ここで言いたいのは、このような光景は、迫害の初めに真実を伝えるために、自発的に中国本土に電話をかけた大法弟子とは大きく異なるということです! 最初に自発的に真実を明らかにした大法弟子は本当に必死でした!  彼らは人々を救うことに熱心で、法を守ることに固執していたので、心を込めて本土の人々に話しかけて(原稿ではなく)、悪を取り除いていたのです。そのエネルギーと純粋な大法の力は聞く者に恩恵を与え、見る者は畏敬の念を抱いていました。

 救われた人の数や最終的に成就できる大法弟子の数は、曖昧ではないのです。その数は、あなたが修煉したことがあるかかどうか、やりたいかどうかに基づいて計算するではありません。実際に何人を救ったか、あなたが修め遂げたかどうかによって、数を計算しているのでしょう。

 ニューヨーカーのある同修が計算したところによると、仮に5億人を救おうとしたら、大法弟子が毎日行っている三退の速さのペースでは目標に到達するには8年半かかるということです。問題は、個人の快適さや興味や習慣を第一に考え、効果を重視せずに人を救うことを続けていると、師父はまた8年半も待ってくださるのでしょうか? ということです。大法弟子が少なくとも5000万人が成就できるとしたら、私達はその5000万人の数字に入れるかどうか、みんなで自分を測ってみてください。そうでない場合、どうやってその場に立ち向かえばいいのでしょうか?

 もしかして、大したことはないと思っている人もいるかもしれませんが、充実した生活を送っていますし、修煉にも力を入れてきました。実際、それはあなたの人間としての考えであり、本当に宇宙の真実を見ると、このような考えかたは全くありませんでした。

 それについて考えてみてください、あなたは息子や娘のために最高のものを得るためにすべてを与える、あなたと深く縁が結びついている天国の衆生は、現世の私たちの子供たちよりもはるかに多いかもしれないのです。真実が明らかになって、彼らが命を失ったのは自分のせいだと分かったとき、あなたは悔い改めないのでしょうか? ただ、その時悔い改めても遅いのです。

 なんだかんだ言っても、私達がぶつかった如何なる出来事も私達の修煉と直接関係しています。もし私たちが相変わらず他人の細かなことにけちをつける、外に向かって探しているのであれば、私たちはまだ自分を修め、他人を救うことには至っていないのです。チャンスはいつもあるわけではなく、突然に終わる日が来ます。みんなでもう一度『精進要旨』を勉強して、師父が自分のことを説かれているかどうかを確認することをお勧めします。

 僅かな観察と考えですが、ご参考までに。

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2021/2/25/421320.html)
 
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