文/如初
【明慧日本2021年4月8日】発正念は大法弟子が必ず行う三つのことの中の一つであり、とても重要です。しかし、私のように内心が清浄ではない人間は、ずっと集中していられません。今まで発正念の際はいつも上の空になり、意識を取り戻してもまた上の空になります。現在、長時間の発正念を続けるなかで、いくつかの心得があります。
一、執着心を多く取り除く
人が入静できない原因は執着心が多いことだと分かりました。例えば私はせっかちで良く怒りますが、それが仕事や家庭の中に現れ、特に悩み事に遭った時、発正念をしても消えないのです。そこで、日常生活の中で怒る心が強い時、静かに正念を発して、自分を冷静にさせます。実はいろんなことで不公平に思いますが、しかしその時は修煉者として苦に耐えて業を返しているのではありませんか。家にいる時、特に子供の前では心性を守ることが難しく、子供をしつける時にもカンカンに怒らないように気を付けています。絶えず法を勉強し、心性を修めるにつれ、徐々にもめ事があっても落ち着いて、ある言葉を直接言うと相手が受け入れてくれない時、やんわりと言えるようになりました。
二、強く正念を守る
現在は強い執着心の邪魔がなくても、小さい雑念はまだあります。例えばある歌声を思い浮かべ、邪魔をする要素を爆弾で吹き飛ばすイメージをすると心がスッキリします。歌い続けると私は大法の音楽を思い出し、大法の音楽でそれをカバーします。それが本当に清浄にできなくても、一念が万念に代わり、他の念を取り除くのです。ある時、何かを思い出し、すぐ自分に「発正念が終わってからにしよう、慌てないで」と言い聞かせます。また、ある言葉が脳に現れ、同修と体験談をしているかのようですが、これは執着心のせいで、顕示心であり、口を修めなければなりません。時々、考えが行き過ぎて、誰かが私の額を軽く叩いたように感じ、護法の神が私に注意して下さったと思い、すぐ雑念を断ち切り、集中して正念を発しますが、考えが外れたら正し、外れたら正し、完全に集中して正念を発することはなかなかできませんでした。
三、功夫の表現
師父は「人が佛の名前を念ずる時、心には何も雑念がなく、大脳のその他の部分が全部麻痺して、何もかも分からなくなるまで、一心不乱に念じなければならず、そうすれば一念が万念に代わるので、「阿弥陀佛」の一文字一文字が目の前に現われてきます。これこそ功夫ではありませんか?」[1]と説かれました。
この功夫は努力するだけではないことを悟りました。大脳は私のものであり、私の指示に従わないといけないので、強制してでも従ってもらいます、そうでなければ私の大脳ではなくなります。夜中に眠れない時、長時間発正念を連続して2、3時間すると、徐々に頭がすっきりして入静できます。入定まではできませんが、しかし修煉はこうして少しずつ向上します。長時間正念を発すると体も暖かくなります。
自分の功を見ることができなくても、発正念の効果があるかどうかも分かりませんが、自分の体も自分の意思に支配されていると思うので、集中する時どんな感じになるでしょうか。例えば、水が一杯の茶碗を持って前に進むとき、ちょっとでも気が緩むと水がこぼれてしまうので、その時は、完全に茶碗に集中しなければなりません。師父は私たちに「滅」という字に集中するようおっしゃっており、私はまさにこの状態だと理解しています。全ての注意を前頭部に集中し「滅」という字を思い浮かべながら、思想の中で「滅」という字のイメージを顕在化させれば、確かに入静することができ、入定したような感じがして、時間があっという間に過ぎ、自分は起きており、眠っていないことが分かります。
注:
[1] 李洪志師父の著作:『轉法輪』