母の魔難の中で自分を修める
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文/黒龍江省の大法弟子

 【明慧日本2021年4月11日】私は幼い頃から母について修煉しましたが、学生時代は学業のために忙しく、卒業後は、仕事のために奔走し名利に惑い、あっという間に30歳を超えました。新型コロナウイルスの関係で実家にいる間に、母に起きた病の魔難の中で如何に自分自身を修めたかの体験を書き出して、同修の皆さんと交流したいと思います。

 母が不法に拘留され、病気が再発

 母は修煉前にてんかんを患い、発作が怖くて私は母のそばにいることさえ怖くなった時期もあったのですが、母は法輪大法を修煉した後、健康を取り戻し、私も母と親しくなることができました。

 2016年の正月を前に、母は江沢民を告訴したため、地元の警察に拘留されました。釈放されてから母にまたてんかんの症状が現れ、時に発作を起こしました。母は修煉の意志はしっかりしていますが、私は非常に悩んでいます。母の発作は迫害によるもので、精神的プレッシャーが大きいため、このようになったとばかり思い、自分とどんな関係があるか考えもしませんでした。

 母の「ベビーシッター」になる

 2020年1月中旬、私が冬休みのために帰宅した翌日、母のてんかんの発作が起き、体がこわばってソファーに倒れ、口から泡を吐き、顔も青紫色になりました。私は恐怖に陥り、全面的に母の生活の面倒を見るようになりました。食事、皿洗い、洗濯を担当し、母がどこへ行っても私は付添いました。また、母の目つき、顔色、振る舞いがおかしくないか、こっそり観察しました。自分の経験から見て母は「異常」だと思いました。母がつばを飲み込む動作に驚き、それは「てんかん」の前触れだとわかり、毎日、母が寝ているのを確認して、私ははじめてほっとするのです。

 師父は『轉法輪』にこう書かれました。「煉功者としてあなたがいつも病気のことが頭から離れなければ、それは、求めること、病気を求めることにほかならず、そうなると病気が本当に身体の中に侵入してきます。煉功者としては心性が高くなければなりません。いつも病気ではないかと怯える必要はありません。病気を恐れるのも執着心で、同じように修煉者に面倒なことをもたらします」[1]。そうですね、私の心配はもう一種の執着になりました。放下すべきだと分かっていても、なかなか放下できませんでした。それから1カ月余りの間、母は3回も発作を起こし、私は毎日神経を尖らせ、とても息苦しかったのです。

 学法して内に向けて探す

 学法をして、母に対する情が深すぎることを見つけました。父はずっと前に亡くなり、私には母しかいないので、母の病状をみて心配し常人のように看病しています。師父は次のように語られました。「その煉功者は何を求めているのでしょうか? 金を求めているのです。考えてみてください。煉功者が金を求めて、何をするのでしょうか? 家族のために厄払いを求めたり、病を治すことを求めたりすることさえも、家族への情に対する執着なのです。他人の運命を左右しようとしても、人間にはそれぞれ定められた運命があります!」[1]

 「はっきり分かっていながら常人としての利益を失うという現実的な利害の前で、心が動じるかどうか、人と人との間で心を探り合いながら暗闘する中で、心が動じるかどうか、肉親や親友が苦痛に見舞われた時、心が動じるかどうか、そういう時にいかに対処するのかなど、まさにこういうところが難しいのです。煉功者となることはこんなにも難しいものです」[1]

 最も心が痛いのは、母の発作が起きた時に体が痙攣する姿を見る時です。私は心が動じてしまって、ますます母の発作を心配します。頭の中でマイナス思考がますます強くなり、「万が一」、「万が一」を考えて、すでに旧勢力の罠にはまっていたことに気づきませんでした。

 「その他に、どんなことが起きるのでしょうか? 急に身体の調子がおかしくなったりもします。業の償いですから、いろいろな形となって現われてきます。ある時期になると、功が本当に存在するのかどうか、修煉はできるものなのか、果たして高い次元へ修煉していけるだろうか、佛は本当に存在しているのか、などについて、あなた自身が紛らわしく思い、迷ったりすることが起きます。将来、あなたに錯覚を与えて、それらすべてが存在しておらず、みんな偽物だ、とあなたに思わせるようなことも起きるかも知れません。動揺するかどうかを試すのです」[1] 

 心を静めて学法することができなくなってとてもイライラし、また、しっかり修煉していなくて病気になり、私にこんなに苦労をかけてと思うと母を恨む心まで生じました。これらの悪い考えに気づいてから、それを除去しなければと思いました。

 母が4回目のてんかんの発作を起こした時、それを完全な「虚像」と見なし、私の心はだいぶ穏やかになり、それを良い事だと思い、動揺しないように、母が目を覚ますまで「法輪大法は素晴らしい、真・善・忍は素晴らしい」をずっと唱えて聞かせました。その後、明慧ネットから『師の恩を思い出す』の文章を探し出して母と一緒に読み、師父と大法に対する信念を強くしました。師父と大法は偉大な存在で、自分の悟りが悪すぎると思って、読むたびに悔し涙が流れました。

 関を乗り越えた

 2020年3月中旬のある夜、母は携帯電話で明慧ネットの記事を見ていましたが、突然、携帯電話を置いて、しきりに唾液を飲み込むようになりました。私は少し緊張しましたが、すぐに正念が生じて、「お母さん、大丈夫よ、正念を持って関を乗り越えましょう」と言いました。母は倒れたり痙攣したりしていませんし、目も歪んでいません。私は母の手を握って「お母さん、聞こえてる」というと、母は「聞こえるよ」と答え、「お母さん、関を乗り越えられたのよ!」と感激しながら泣き出しました。その後の4月~6月、母はとても調子が良かったのです。

 7月に入って、母に何回も「てんかん発作」の現象が現れ、それはいずれも人出の多い場所で起きて、親戚も現場に居合わせました。親戚はみんな母が修煉していることを知っていますので、母の「発作」は旧勢力が衆生に大法に悪い印象を持たせるための妨害ではないかと私は考え始めました。

 根本の執着心を見つけた

 ある朝、静功をした時に足がとても痛くて、思わず涙が出てきました。「こんなに苦しいのに、どうして修煉を続けるのか」と自分に問いかけました。心の中に一つの声がして「母の病気を治すためだ」と言いました。これこそ自分の根本的な執着だと私は一瞬に目を覚ましました。

 子供の頃、初めて大法と縁を結んだのは、隣人から法輪功を紹介するチラシをもらったことからです。それを持って帰って嬉しそうに「この気功は母の病気を治せるから」と父に見せました。潜在意識の中で、煉功を続けるとこれから死なずに済み、これからの人生は素晴らしいことばかりだと思いました。

 さらに掘り下げてみると、自分はずっと法理に則って大法を理解することができていないことに気づきました。母が修煉してから病気が治ったのを見て、「法輪功はこんなに素晴らしいものだ」とワクワクして自分も修煉を始め、母に病気の症状が現れてから、「あら、どうして煉功しても病気を取り除けないのか」と動揺しました。

 母への愛情の裏には、利己心、依存心があることも分かりました。長年、母の学法と煉功はとても精進している状態にあるので、私は母に引っ張られることをずっと期待していました。母がいないと、引っ張ってくれる人がいなくなります。また、経済的問題もあります。新型コロナウイルスの関係で現在の私は収入がなく、母の年金で暮らしています。母がいなくなれば、これからの生活が心配です。

 さらに探すと、無条件に内に向けて探すことができず、求める心があることも分かりました。悩みを解決し苦しみから抜け出すために、仕方なく内に向けて探しているのが、私の現状です。

 また、母を心配しているのは母のためではなく、母の面倒を見ることに疲れて、そのような生活から抜け出したいために母に早く健康になってほしいと思っていました。

 「修煉者は世間での得と失を求めておらず、病気に執着するのも世間での得と失を求めているのではありませんか? 病気が治ったら大法のために多くの良いことをすることができ、私の病はなぜ治らないのかと思う人がいます。あなたの病気の回復、あなたの修煉、あなたが大法弟子になることに皆条件があります。なぜならば、病気が回復したら、はじめて修煉をし、大法を認めるからです。修煉には条件はありません。何も求めずともおのずと得るということです」[2]

 「修煉者として、このような試練を与えられます。この時、本当にあなたに試練を与えており、あなたは修煉者として見ているのか、それとも常人の心で考えているのでしょうか」[3] 

 2020年7月21日の朝、母と一緒に煉功しました。終わる直前に母はまたしきりに唾液を飲み込んでいました。私はすべてを放下して、母に向かって「私たちは李洪志師父の弟子です!」と3、4回叫びました。心の中に心配もなく、とても落ち着いていました。結局、母は倒れずにじっと座っていました。母を抱きしめて、泣きながら師父に感謝しました。師父の言葉、「弟子正念足りれば 師は回天の力有り」[4] を切に感じました。私と母は一つ大きい関を乗り越えました。母の長期間の病気の現象は、私のせいでした。

 多くの執着心が見つかった後、内心は落ち着き、ネガティブな思考は本当の自分でなく、後天的に形成された観念によって出されたという道理も分かりました。今はネガティブな考え方が現れるとすぐ消去して、心配したり疑う目で見なくなり、母はどう見ても健康な人のようです。

 以前に学法した時、法理との間にずっと隔たりがあると感じて、どんなに努力しても大法から遠く離れていると感じていました。今は、その隔たりが消えて、とても良い感じです。

 ここ数日、2013年に仕事の面接を受けた時のことを思い出し、修煉の厳粛さを改めて感じました。面接の時はちょうど夏休み期間中で、校長は私にすぐに仕事を始めてほしかったのですが、私は実家に帰って夏休みを過ごしたいと思いました。目的達成のため、なんと私は「母の具合が悪く、てんかんの症状があるので、病院に連れて行かなければならない」と嘘をつきました。これは心を正しく持っていないため自ら招いた魔難ではないかと思うと、ぞっとしました。

 今回こそ懲りました。修煉は本当に厳粛なもので、今までのようにうっかり貴重な時間を無駄にすることはできません。これから真心をこめて修煉していきたいと思います。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『轉法輪』
 [2] 李洪志師父の経文:『二〇〇四年ニューヨーク国際法会での説法』
 [3] 李洪志師父の経文:『二〇一九年ニューヨーク法会での説法』
 [4] 李洪志師父の著作:『洪吟二』「師徒の恩」

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2021/2/7/419639.html)
 
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